夏目漱石「虞美人草」 死を忘れるな
今回は私が漱石作品の中で非常に影響を受けた「虞美人草」について感じたことを書いていきたい。これを読んで私自身の人生観ががらりと変わった小説でもある。
最も印象を受けたのは、小説の最後の部分で、哲学者の甲野さんが我執に充ちた妹である藤尾の死について綴った日記だ。中でも、私が目にとまったのはこの一節だ。
死を忘るるものは贅沢になる。...贅沢は高じて大胆となる。大胆は道義を蹂躙して大自在に跳梁する。
自らの「死」を忘れて、贅沢をするものが道義(人倫)を踏みにじる。
なぜ「死」を忘れてはならないのか。漱石は「死」を偉大な存在として書いている。
悲劇は喜劇より偉大である。
これを説明して
死は万障を封ずるが故に偉大だと云うものがある。
取り返しが 付かぬ運命の底に陥(おちい)て、出て来ぬから偉大だと云うのは、流るる水が逝(ゆ)いて帰らぬ故に偉大だと云うと一般である。...
忽然(こつぜん:一瞬)として生を変じて死となすが故に偉大なのである。忘れたる死を不用意の際に点出するから偉大なのである。
巫山戯(ふざけ)たるものが急に襟を正すから偉大なのである。
襟を正して道義の必要を今更の如く感ずるから偉大なのである。
どんなに人生を謳歌しても、決して逃れられない「死」は、我々に必ず訪れる。
その「死」はこぼれてしまった水のように、再び「生」に戻ることはない。
取り返しの付かない「死」はあらゆる悪を封じ込める。その「死」の偉大さに気が付けば、ふざけるものも動きを止めて、「人倫」を持たねばならないと感じる。この「ふざけるもの」は、この後に述べるが、今を生きる我々自身である。
人生の第一義は道義にありとの命題を脳裏に樹立するが故に偉大なのである。
しかし、今もなお発展する社会はその「死」については考えず、どの職業がいいか、どの服がいいか、どの男がいいか、女がいいかなど、いかに人生を生きるか、「生」についてしか考えないようになる。ここで漱石は、このように、どれがいいか選り好みをする「贅沢」を「喜劇」、「生死の問題」を「悲劇」とした。
問題は無数にある。粟(あわ)か米か、これは喜劇である。
工か商か、これも喜劇である。あの女かこの女か、これも喜劇である。
綴織(つづれおり)か繻(しゅ)ちんか、これも喜劇である。
英語か独乙(ドイツ)語か、これも喜劇である。
凡てが喜劇である。
最後に一つ問題が残る。ー生か死か、これが悲劇である。
如何にして生を解釈せんかの問題に煩悶して、死の一字を念頭に置かなくなる。この生とあの生との取捨に忙しきが故に生と死の最大問題(悲劇)を閉脚する。 死を忘るるものは贅沢になる。...贅沢は高じて大胆となる。大胆は道義を蹂躙して大自在に跳梁する。
なぜ「喜劇」である贅沢が「道義」を踏みにじるのか。ここからは漱石の社会に対する強烈な批判、怒りにも等しい内容が書かれている。
万人は日に日に生に向って進むが故に、日に日に死に背いて遠ざかるが故に、大自在に跳梁しても生中を脱する虞(おそれ)なしと自信するが故に、-道義は不必要となる。
発展を進める社会は次第に贅沢になっていき、多くの人は次第に「死」について考えなくなるために、道徳を踏みにじっても、生きていけるから大丈夫であると高を括っていく。この「喜劇」=「贅沢」が、ふざけるものを生み出す。
道義に重(おもき)を置かざる万人は、道義を犠牲にしてあらゆる喜劇を演じて得意である。巫山戯(ふざけ)る。騒ぐ。欺く。嘲弄する。馬鹿にする。踏む。蹴る。ー悉く万人が喜劇より受くる快楽である。この快楽は生に向って進むに従って分化発展するが故に、-この快楽は道義を犠牲にして始めて享受し得るが故にー喜劇の進歩は底止する所を知らずして、道義の観念は日を追うて下る。
いじめや虐待、誹謗中傷、社会人にとっては過労をさせたり、マウンティング行為をしたりするような人間は、自らの「死」(悲劇)を忘れて、喜劇(贅沢)を演じるから悪を成して、道義を踏みにじるのではないか。社会が発展するにつれて、喜劇(贅沢)が著しくなり、道義は忘れられていく。
道義の観念が極度に衰えて、生を欲する万人の社会を満足に維持しがたき時、悲劇は突然として起る。ここに於(おい)て万人の眼は悉く自己の出立点に向う。始めて生の隣に死が住む事を知る。
いじめや虐待による「死」、過労死、自殺、喜劇(贅沢)により道義が消えかかる時、そこに悲劇(死)が表れる。その時、我々は悲劇(死)が将来先に在るのではなく、生きている今にあることを知る。
妄(みだ)りに躍り狂うとき、人をして生の堺を踏み外して、死の圏内に入らしむ事を知る。人もわれも尤も忌み嫌える死は、遂に忘る可(べ)からざる永劫の陥穽(かんせい:落とし穴)なる事を知る。陥穽の周囲に朽ちかかる道義の縄は妄りに飛び超ゆるべからざるを知る。縄は新たに張らねばならぬを知る。
喜劇(贅沢)に翻弄される人間は、忘れていた悲劇(死)が落とし穴のように、注意しなければならないことであると理解する。そして道徳は踏みにじってはならないことを理解する。道徳は必要でなければならないと理解する。
第二義以下の活動の無意味なる事を知る。
而(しか)して始めて悲劇(死)の偉大なるを悟る。...
道義の実践
上記に書いた「死」の偉大さについての部分を、私は今から一年以上前に読んだのだが、未だに忘れることはない。忘れてはならないものである。
道義の運行は悲劇(死)に際会(出くわす)して始めて渋滞せざるが故に偉大なのである。...悲劇(死)は個人をしてこの実践(道義)を敢(あえ)てせしむるが為に偉大である。...人々力をここに致すとき、一般の幸福を促して、社会を真正の文明に導くが故に、悲劇(死)は偉大である。
人々が自分自身の「死」について、「死」の偉大さについて考え理解すれば、必然的に道義を持って、良い社会を築いていけると漱石は書いている。
あらためて書くが、
死を忘るるものは贅沢になる。...贅沢は高じて大胆となる。大胆は道義を蹂躙して大自在に跳梁する。
この一節は「死」の偉大さ、忘れてはならないことをまとめた、大切な一節だと思う。
おわりに
18世紀末に産業革命が起こり、大量消費、大量生産を行う豊かな「近代社会」が出来た。そしてIT革命が起こり、今の「現代社会」はより個人の生活が豊かになり、より「贅沢」が出来る環境が出来た。しかしこの一人一人が選り好みできる「贅沢」な環境が、自分の欲望のままに動き、我執にとらわれて、人倫を希薄にさせ、いじめ、虐待、過労死を招いているのではないか。改めて一人一人が「死」について考え、次世代を生きる人たちのためにも、漱石が訴える「道義」の必要性を理解しなければならないと思う。
参考文献