ATFL’s diary

文学や哲学の本について紹介します。疲れたときには形而上、死後へ帰る時間 

池田晶子 陸田真志「死と生きる 獄中哲学対話」 言葉の力

池田晶子

1960年、東京生まれ。慶應義塾大学哲学科卒業。哲学用語によらない哲学の文章表現活動を、様々なジャンルで展開した。著書に、対話編三部作『帰ってきたソクラテス』『悪妻に訊け』『さよならソクラテス』他、『事象そのものへ!』『オン!』『メタフィジカル・パンチ』『睥睨するヘーゲル』『残酷人生論』『知ることより考えること』『14歳の君へ』等。2007年2月死去。 

 

陸田真志という強盗殺人事件を犯し、1998年に死刑判決を受けた者が、拘置所にいる間に池田氏宛てに手紙を送り、その内容が面白い事から、「哲学者」と「死刑囚」の獄中往復書簡が始まる。それら手紙のやりとりをまとめたものが今回紹介する本である。

 

一通目の手紙の前半では、拘置所内で過ごす陸田氏が、自身の犯した罪に向き合い、自身を責める内容が書かれている。

生まれてからこれまでの自分の生き方を考えれば、ただただ浅ましく、外国に行ってまで犯罪組織に入り、それで逮捕、拘置された事さえ、世間を怨みに思うような、全くひどい、己れと金と暴力しか信用しない生き方しかしておらず、誰か一人の人間に対してさえ、何もしてやれた事がない事を考え、がく然となりました。...

                   陸田真志 一通目の手紙 p13

その後、トルストイ、聖書などを読み、「よい人間」に努めようと思うも、矛盾する考えが生じ、苦しむ日々が続く。そんな中で新聞に掲載されていた池田氏の記事を読み、「何か」がわかる思いがする。この記事の内容は、「金銭的な良い精神的な善いは違う」との記述らしいのだが、これは「さよならソクラテス」の中でも紹介されている。

 

ソクラテス

金で手に入るよいものと、金では手に入らないよいもの、「良いもの」と「善いもの」、すなわち、経済的価値と哲学的価値とは別の話なのだ。このふたつの価値をごっちゃにするところから、金儲けは卑しいとか、清貧それ自体が素晴らしいとか、今や心の時代なのだとか、妙な話になってゆくのだ。...人は、金によって良い物が手に入ることに慣れてくると、金それ自体を良い物と思うようになる。...困ったことはだね、このとき人々は、よいものは金で手に入るものという考え方に慣れすぎていて、金では手に入らないよいもの、すなわち、「善」という価値の欲し方がわからないということなのだ。いくら金を積んでも、金を貯めても、善だけは手に入らないのだ。なぜなら、いいかね善は、タダだからだせっかくタダなのに、金なんぞ要らんのに、善というよいものを、気の毒に、人は手に入れることができないのだよ。

             池田晶子「さよならソクラテス」p137-138

ソクラテス

「...善と善なる魂においては、売り買いという考え方はもはや成立しないのだ。この交換は、売り買いという言い方では言えない。どっちが売って、どっちが買ったと言うことは不可能なのだ。買った方にしてみれば、買ったつもりで、その魂を善に買われたとも言える。売った方にしてみれば、売ったところで、その魂から善がなくなるわけでない。なぜなら、いいかね善は、無尽蔵だからだ。無尽蔵であって、誰のものでもないからこそ、は、なのだ。決して尽きない力となるのだ。したがって、金に魂を売るなんてことが可能だと思ってるのは、金に魂を売ることが可能な魂でしかない。つまり、善ではない魂だけが、魂を金に売ることができるというわけだ。これをもう一度裏から言うと、哲学することが可能なのは、やはり善なる魂だけだということなのだ。」

                                              池田晶子「さよならソクラテス」p151

 

池田氏の本を読み、ソクラテスの弁論術に従って「正しい、違う、正しい」と正しく判断していた陸田氏自身は、「正しい」分かる自分気づきながら、「ソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン」、「さよならソクラテス」を買い求め、 自身の真実に気づく。きっと「弁明」のこの言葉である。

 

 

恐れるということは、いいかね、諸君、知恵ないのに、あると思っていることに他ならないのだ。なぜなら、それ知らないことを、知っていると思うことだからだ。なぜなら、死を知っているものは、誰もいないからです。ひょっとすると、それはまた人間にとって、一切の善いもののうちの、最大のものかもしれないのに、彼らはそれを恐れているのです。つまりそれ害悪の最大のものであることを、よく知っているかのうようにだ。そしてこれこそ、どうみても、知らないのに、知っていると思っているというので、いまさんざん悪く言われた無知というものに、ほかならないのではないか。…

 

まぬかれる工夫は、たくさんある。いや、むずかしいのは、そういうことではないでしょう、諸君、まぬかれるということではないでしょう。むしろ下劣まぬかれるほうが、ずっとむずかしい。…

プラトーン「ソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン」p45,75

 

…諸君、こういう議論にこそ僕は、まっすぐに答えよう。生きるか死ぬかよりも先に、知りたまえ死を免れることよりも、下劣免れることの方が、はるかに難しいことなのだ、と。

 僕は、いかなる場合であれ、死を恐れたことがない、なぜなら、いいかね、恐れるということこそ、人間の無知のうちの最大の無知、すなわち自ら知らないもの知っていると思い為すことに他ならないからだ。は、ひょっとしたら、最大に善いものかもしれないのに、人はそれ最大の害悪であることを知っているかのように恐れるのだ。けれども僕は、死を知らない。知らないということを、はっきりと知っている。ゆえに僕は、死を恐れることなく、正を知ることを欲するだ。

     池田晶子「さよならソクラテス」p277(ソクラテスの弁明)

 

 

死を恐れず下劣である事を恐れる」、それを知り、又、獣としか思えなかった私にも善を求める心がある事、あった事がわかり、やっと自分自身を卑下する考えから解放されました。そして、死も神も自由も孤独も権力も概念に過ぎない、そう知って、初めて何者も恐れず、何物にもとらわれない、真に自由な自分自身の魂をとり戻せた思いです。そして、その「善」が在る事。それを求める心が、自分にもあった。その事実にこそ、「神」が存在する、そう信じています

                                               陸田真志 一通目の手紙 p17

 

 

への恐怖から逃れる、または目を逸らして、ひたすら金銭や快楽に執着しようとする己の下劣さ、卑しさをこそ恐れなさい、と。そうしたへの恐怖や、思い込み、執着を、古典や書物を読んで自己と向き合い考えることで、手放す、解放する。そして本来の自己である「捉われのない精神」を取り戻すことこそが、真実である。その真実に近づこうと姿勢は、元々我々が真実知っていたからであろう。真実は自身の外側にあるものではなく、自分自身に内在しているのである。何ものでもない自分(即ち一切合切が自分であること)、こだわりのない、捉われない自由な精神近づこうと目指し続ける姿こそ、真実としてのが、人類に対して求めている姿なのではなかろうか。

 

 

人間のもっとも深いところにある正真正銘の自己は、完全に自由である。過去、地位やアイデンティティといった要件にはめれたり、型にはめられたりしない正真正銘の自己は、この俗界には恐れるものはないことを承知していて、富や名声、支配などに頼って自らを構築する必要性認めないこれこそが純粋な霊的自己人類がいずれ立ち返る定めにある姿なのだ。だがその日が来るまでは、できる限り努力して、そのようなすばらしい側面に触れそれを育み、引き出すことに力を尽くさなくてはならないのだろう。”それ”はたったいまもわれわれの内に息づき人類に対し神が真に意図する姿にほかならない

 

       エベン・アレグザンダー「プルーフ・オブ・ヘブン」p121

 

真実を認識した陸田氏は、公判で裁判官に対して死刑を恐れることなく答弁する。

「死刑になってもならなくても、よく生き、死んでいく事、正しくある事が、私がこの先できる唯一の償ないだ」 

                                                   陸田真志 一通目の手紙 p17

 

 この手紙を読んだ池田氏は内容を絶賛し、陸田氏に返事を送る。

あなたは、ソクラテスの言葉を、見事に正確に理解していらっしゃいます「わかる人」には、これは、あまりに当たり前のことなのです。ところが、この当たり前のことが、世のほとんどの人には、じつは、全く、わからないのです。もっと言えば、ソクラテスの刑死以後二千五百年、人類はいまだにその意味理解していないのです。だからこそ、現代世界は、二千五百年かけて、ここまで堕落してきたと言っていい

・・・

 二千五百年後のあなたが、ソクラテスに共感することができたのは、彼が、善く生きることを自ら示してみせたためだということ。そして、プラトンという人が、そのことを書いて残したためだということ。示し、書き、残さなければ、善く生きるということを、人に伝えることはできないのです。そして、善く生きる といことは、明らかに、そのことを「人に伝える」ということを、含んでいるのです

・・・

とにかく、これは、きわめて大事なことなのです。あなたのためでも、私のためでもなく、広く世の中のために、大事なことなのです。

・・・

 あなたが救われたように、ほかの人も救ってあげて下さい。協力は惜しみません。

 「善く生きる」という深い言葉の意味を、さらに大きく捉え直してみてはくれませんか。

                                                             池田晶子 一通目の手紙 p27-29

 

このような展開から始まる往復書簡だが、今回は私が印象に残った箇所の手紙のやりとりを紹介したい。私自身も、善く生き、死んでいきたい為に、真理をブログに書き示し、読む者に伝えたい思いである。

 

純粋な霊的自己近づく方法はあるのだろうか。その答えは、愛と思いやりを示すことだ。…霊的な領域はこれらによって構成されているのだ。

 

     エベン・アレグザンダー「プルーフ・オブ・ヘブン」p122

 

1.死は不幸な事ではない

陸田氏は殺人を犯した罪としての罰である死刑制度を、自分自身を内省するための契機として人道的であると考え、逆に、内省する契機を与えない少年法は、非人道的であると考えている。

 

 死は不幸な事ではない万人にやってくる必然であり、本当に不幸なのは、生きている内に自己考えず、知らずにただただ、金や食い物や、服や容姿や結婚や家族や健康や宗教やヤルだけの恋愛などだけを、自分の幸せと思って、ただ生きて、死ぬ時になって「それらがなければ、自分は幸せとは思えなかった。自分自身、自分そのものだけでは、幸せではなかった。自分そのものは生まれてから今まで不幸なままだった。それがないこの先も不幸なのか」。そう思いながら、不幸の中で死んでいく事、又は、それさえも気付けず決して不幸ではない人生終わる事。その事こそが「不幸中の不幸」と思えるのです。

 私の罪とは、厳密に言えば被害者の命を奪った事より、彼らが彼ら自身の真実に気付き得た可能性奪った事にあります。人間がその自己の真の目的に気付く潜在能力を有しているその事こそが万人に平等にある「人が人としてある」天賦の権利、「人権」であると思えるのです。その為のきっかけと時間を、罪を犯した者に与えてくれる死刑制度は、むしろ、非常に人道的であると思えるし、無理にその人間自身の罪悪を考えさせないようにする少年法人権派の方が、むしろ、非常に人の道を外したものであり、その人間への「仁義」見失っていると思うのです。

                                                         陸田真志 三通目の手紙 p31-32

 

陸田氏、池田氏が常に著書の中で訴えているのは上記の言葉(死について考えよ)なのである。なぜ私がブログでもって利己的な収益も得られるわけでもなくこのように言葉を書いているかというと、私自身も読む者に対して「死」について考えて欲しいからである。私自身も」について考えたことで、人生の生き方や態度が本当に変わったからである。態度や生き方が変わった契機となった言葉は、漱石のこの言葉である。

 

忘るるものは贅沢になる。…贅沢は高じて大胆となる。大胆道義蹂躙して大自在に跳梁する。

 

道義に重(おもき)を置かざる万人は、道義犠牲にしてあらゆる喜劇(贅沢)を演じて得意である。巫山戯る。騒ぐ。欺く。嘲弄する。馬鹿にする。踏む。蹴る。…

                 夏目漱石虞美人草」p453

 

驚きと絶句が走った。まさに哲学の「原点」である。「常に伴侶しない哲学などに、どれほどの力があり得るだろう」。人に対する侮蔑、軽蔑、嫌がらせ、虐待や女々しい虚栄心など、人間は自身の「忘れるが故に非行に走るのだ漱石は書いており、陸田氏同様に、を契機として書物を読み、言葉を求めるようになった。そして同じ様に、池田氏ソクラテス「弁明」の言葉に触れて、への恐怖や思い込み捉われない精神が、真の自分自身であることに気付いたのである。人間には必ずこの真実に触れて、考えたいという「自己の真の目的に気付く潜在能力」を有している。自分が、確実に、死ぬこのことを真剣に考えるか否かで気付くのである。このブログを読んでいる者も、必ずこの「能力」を有しているのだから、是非とも真剣に古典や本を読んで考えて欲しい。

 

有限の自分が「死ぬ」、「無」となっても、無限の宇宙は永遠に「存在」していること、「無」と「在」、存在論。このことを不思議と思う感受性や感覚を大事にして欲しい。頭で分かるのではなく、自分自身の感覚で、直観で、霊感で、捉えるのである。 

 

感じわからないものは、何もわかったことにはならないということわかるとき、それが「わかる」ということば指示する全てであり、人類はこの出来事について、それ以外のことばを持っていないだけのことだ。

思想は思考に先立たず思考は感覚に先立たない。そして感覚は、私たちの一切の経験の基底に存在しているものだ。

この単純な事実気づかない人々が、空疎なことばを費やして「無限」のうえに生き死ぬ私たちに、いったい何を教え説こうというのだろう。

               池田晶子「事象そのものへ!」p24

 

人は自身の死と向き合い、死を超越することで、何ものでもない人称の「私」であることに気付き偉大な賢人たちの「思想」という名の「普遍性」を捉えることが出来るのである。宇宙を感受せよ。感受した霊感の源泉から湧き出る聖水に、恣意的な自我除いた自身の思考を浸してみよそうすれば、賢人たち淀みや手垢ついていない「言葉」で汲み上げた手に入れることが出来る目に見える個別的な自己貫いた目に見えぬ普遍的な「私」「存在」常に自覚し見据え続けた「精神」だけにこそ分かる境地である。

 

自身の深みから思想とよばれる普遍性を紡ぎ出して来ることができるのは、人称をもたない「」だけだ。

               池田晶子「事象そのものへ!」p173 

 

淀みや個人的な解釈、人生観など捉われない意識、「わたし」という人為的命名拒み、何ものでもないから、全てが流れ込むことが出来る無色透明な意識こそ、「」の名に相応しい「意識」、非人称の「私」である。

 

…あらゆる命名を峻拒しつつ、なおかつ在り続ける神人の意識こそ既にして実現している絶対自由でなくて何であろう!-…

             池田晶子「考える人 口伝西洋哲学史」p194

 

2.真理を語るということは、世を騙るということ

陸田氏が池田氏との往復書簡をする上で心配していた事がある。それが、彼の書く文章

が、大衆の読者に伝わるかどうかだった。

 

 私が自伝を書きたくない理由の一つは、そこにあるのです。私が私を書いては、私の伝えたい示したい事は伝わらない。そう思えるのです。

 私も自分の以前の姿を思えば、「非道、畜生」の上に「クソ、ド」が付くような人間でしたし、この私の手紙を読む読者の人も、やはりまず「あーあのSMクラブの」とか「あー、あのコンクリ詰め殺人の」とか考えるだろうし、読み終わったとしても、「こりゃ、拘禁されてるから」とか「まっとうじゃない人生歩んで人殺したから」とか、「死刑になる可能性があるから」とか考えるだろうし、私が「私の心の変化」を書いても、それが自分と同じ人間、自分の姿そのものだ、とは思わないだろうと思うのです。

                   陸田真志 三通目の手紙 p47  

 

「死刑囚」という属性や続柄に注目して文章を読んでしまうと、自分とは違う価値観だから…と拒んでしまい、著者の精神が紛れもなく己の精神であることが分からずにいる人がいるかもしれない。そのため池田氏は「騙る」ことが大事であると返事を書いている。

 

世は、騙り」、拙著のオビに私はそう謳いましたが、真理を語るということは、世を騙るということに他なりません。なぜなら、真理それ自体が不可解な逆説であるうえ、まさにあなたが言う通り、それは「わからない人には決してわからない」からです。そして、わかる人にはわかるのも、わからないということがわかるということだからです。

 けれども、「わからない人には決してわからない」は、裏返し、「わかる人には必ずわかる」です。だから、ソクラテスは語り、プラトンは書いたのです。なぜか、黙って死んでもかまわないのに、なぜ彼らは語り、かつ書いたのか。

 真理は、表現されるべきだからです真理が、表現されることを欲するからです原初の言葉(ロゴス)は、それ自体が真理であり、真理は自身の力の無限大の充実のゆえ、言葉により自身を表現し、自身を認識することを、必ずや欲するものだからです。真理の力とは、またの名、でもありましょう。まあ言ってみれば、これが、この宇宙が存在するというそのことなのですが、この続きは、来たるべき次の機会のお楽しみということに致しましょう。

 なぜソクラテスは書かず、プラトンが書いたのか。しかも、対話体という手の込んだ形式によって書いたのか。

 これも、あなたが的確に指摘した通り、真理は誰のものでもなく、その表現、伝達のためには、生身の表現者は、いったん身を隠す必要があるからです。私もまた、池田某が書くのではなく、ソクラテスが語るのを書くという形式をとりました。ソクラテスというビッグネームが語るのでなければ、誰も池田某の言うことなんか聞きゃしませんから。語るべき相手

に語るためには、幾重にも屈折した技、すなわち騙りが必要だということです。けれども、それでも、だからこそ、「わかる人には必ずわかる」。

                 池田晶子 二通目の手紙 p57-58

 

騙るということ、すなわち虚構(フィクション)である。

 唯一、我々の祖先であるホモ・サピエンスだけが、他の人類種を淘汰し、制圧する事が出来た。その理由には、他の同種族と連携してコミュニケーションを取って移動したり、あの山の神により我々は守られているのだ、というような、他の種族にはない、虚構(フィクション)を作りだす事が出来たからだ(認知革命)。虚構は小説や物語の中で完結するものではない。虚構により国家、貨幣、多神教を作りだし、今の資本主義、社会主義、優生思想などのイデオロギーも、まごうことなき虚構が作り出した産物に過ぎない。

 このように、人は言葉により語(騙)られた「考え」により行動している。

 

 人間が行動するのは、おしなべて「考え」による。「考え」によって、人は意志し行動し決断する。人はこのことを、自分の思考において明確に表象できるようになるべきだ。決断に逡巡する英雄の胸中にあるものそれは「考え」だ。引き金を引く指も、前進する戦車も、あれらすべて「考え」だ。可視的表象に騙されてはならない可視的なもの動かしているのはすべて、そのように考えている人間の「考え」なのだ。

 「人間」の語で、人は多く、この可視的形姿を表象するようだから、私はあえて「人間」ぬきの、「考え」の語のみで言いたい。「人間」が動いているのではない「考え」が動いているのだ。歴史を動かしてきたものは、英雄でも戦争でもない、またその背後の誰か思想家でもない不可視の「考え」だ。表象における映像を警戒せよ

                        池田晶子「残酷人生論」p104-105

 

フィクションとは真実を語るための嘘だ。

                  アルベール・カミュ

 

虚構により騙られた言葉、それが個別的な自己を超えた普遍的な「思想」ならば、「存在」を自覚し見据えた「意識」には分かるのだが、それでも各人の意識は別々なのである。自己意識は別々なのである。「真理」である「思想」は「普遍」であるのだが、認識するのは「個別の意識」であるという逆説。個々の意識は一つの意識、一つの絶対精神は個々人の絶対精神、「一即多」、「多即一」。「存在」について全ての精神が考えていても、肉体は個々に存在するのだから、「個人の絶対精神」となる。だからこそ、虚構により騙られた「思想」でも、「存在」を自覚し続ける意識だけには、自ずから分かれてきたところの出自を自覚する精神には、必ず分かる。

 

3.陸田氏の控訴・善く生きることは努力し続けるということ

往復書簡を始めてすぐの事なのだが、陸田氏が控訴しない場合、彼は他の収容所に移動してしまい、その後一切連絡が取れなくなる。その事を池田氏は手紙で書くのだが、陸田氏は依然として控訴する気はなかった。

 

私が控訴したとして、池田様には「これは善く生きる為、それを伝える為だ」と思ってもらえても、彼らは「これはいのちが惜しいのだ」そう思うであろうと、やはり私は思うのです。...

                  陸田真志 四通目の手紙 p74

 

陸田氏の手紙に対して、池田氏は三通目の手紙を出す。

...あなたは、自分ひとりで完結してかっこよく死ねばそれが「普遍的な考えとして伝播する」と思っているようですが、どっこい、人の世は、そうそううまくは生きません。今なら、あいつは自分ではかっこよく死んだと思って死んだと思われるだけで、あなたの死も、あなたの考えも、たちまち忘れられて、それでおしまいでしょう。人に忘れられても自分はかまわないのであれば、それではちっとも善く生きたことにならないではないですか

 何度も繰り返しますが、ソクラテスがかっこよく死ねたのは、やるべきことをやったからです。伝播されるべき言葉を残したからです。やるべきことをやらず、言葉も残していないあなたは、かっこよく死ぬどころか、じつは善く生きてさえいないということです。

...

「善く生きる」ということは、「善く死ぬ」ということではありません。あなたの考えからは、その間が、スポッと脱落している。「善く生きる」ということは、そのように「努力する」「努力を続ける」ということ以外ではありません。死ぬなんてのは、いつでも誰でも死ねるのだから、いかなる努力も要らないのだから努力して生きる、努力し続けるということこそが、「善く生きる」というそのことになるのです

 あなたはまだ、いかなる努力もしていません。努力を放棄して、死ぬつもりですか

できることなら、わからない人、わかりそうにない人にもわからせたい」と、自分でも言っているではないですか。そのために、どれだけの努力をしたというのですか

 あなたにとって、最もわからない人、わかりそうにない人とは、誰ですか

 言うまでもない、被害者の御遺族でしょう。あるいは自分の家族でしょう。本当に善く生きる気があるのであれば、誤解され、罵倒されながら、あなたがわかったことを、彼らにわからせる努力をするべきではないですか「死ぬ」という、いかなる努力も要しない最も安楽な方法によって、そもそもわからない人が、どうしてわかるはずがありますか

                                                              池田晶子 三通目の手紙 p83-84

 

池田氏珠玉の言葉により、陸田氏は控訴する。

その後、陸田氏の手紙は社会への批判的な文章が多くなり、池田氏にアドバイスをもらいながら修正してゆく。

 

 …他の誰かではない「陸田真志」の立場での、思索の深化をはかること。表現は、あとからついてくるでしょう。

 

 禅のほうで、「増上慢」もしくは「未徹在」という言い方があります。小僧の「生悟り」を戒める言葉ですが、「気づく」ことはじつは易しく、それを「保つ」もしくは「為す」ことのほうがよほど難しいのだ、といった含みもありましょう。

 「一瞬にして全てが見えた」とか、わかった、悟った、解脱した、と「思う」瞬間は、じつはそんなに珍しいことではないのです。そうではなく、「わかった」そのこと、絶対としてのその質を、この相対界、この人生において生きること、生き通すことの、いかに困難であることか「悟後の修行」が大事です。「努力」という、古臭いような言葉で私が言おうとしているのも、そのことです。

 人は、一度わかったことを、忘れます意識的に、自覚的に、努めない限り、わかったことを忘れてしまうのです。独房の中といえど、そこも人の世ですから、大なり小なり雑音は届くでしょう。そのような雑音を雑音として取り込まずに、自分を維持していけるかどうかが、分かれ目です。

                                                                 池田晶子 五通目の手紙 p116

 

名言や箴言、偉人達の格言など、心に響く言葉は多岐にわたるが、その言葉を自覚して生きることは、本当にその言葉により表されている真理を理解、認識しないと、維持する事は難しい。 私自身、意識的に、自覚的に、努めなければならないと、認識出来たのは、漱石の言葉だった。「忘れるな死(本質)忘れる奴が、欲得を満たそうと(贅沢)して、道義を蹂躙するのだ。」それ以来、上記の様に、印象的な言葉、真理を表している言葉があった時は、しっかりと書き留めて、後で見返して出来るだけ頭に入れる様に努め、今、自分が出来る事、目の前の事に取り組む様に努力している。その目の前の事に向き合う意志、姿勢の構えは、偉人達の言葉により表された真理、「考え」である。その「考え」を自分が死ぬ時まで貫けるか、常に自らに問うことで、自覚する様にしている

 

決して自明なものではない。だからこそ常に自らに問うことで、人は自らの道を確認するのだダイモン(鬼神)はそこにいる。生活がどうあれ、世評がどうあれ、自分にはこうとしかできないのだと。

 というわけで、他人のことなど知ったことではない。どこまでゆけるか。私は私の道を行く、我がダイモンを道連れに

                                 池田晶子「人間自身、考えることに終わりなく」p132

 

ソクラテス

僕は精神主義的な人好き精神主義的な人とは、真・善・美について考えることをやめない人それらが何なのであれ、あるいは何ものでもないのであれそれでもそれらがそれらであるということで、決して手放さない人。なぜか。なぜ手放さないのそれは、それらが人間の精神の理想だからそれらがそれらであるのなければ僕らの精神が精神であるということもう意味をなさないからだ。…

         池田晶子ソクラテスよ、哲学は悪妻に訊け」p145 

 

4.理性こそ人間の本能

 書簡のやりとりも終盤に入り、池田氏は陸田氏に対して、人を殺す時の心境を語って欲しいと手紙に綴る。

 

あなたは、「歴史」の側については、今や透徹した視野を獲得しつつあると思います。だからこそ、いま一度、「実存」の側、人を殺すという尋常ならざる経験をもつ者として、人間心理の不可解を語ってほしい人を殺すということは、「なぜ」苦しいものなのか、「いかに」苦しいものなのか、あるいは、そもそもそれはいったい「どういうこと」なのかなぜ人は人を殺すのか。「ラスコーリニコフの苦悩」を、もっと生な言葉で聞いてみたい。この仕事は、少なくともいま現在の日本において、あなたにしかできません。そして、次なる歴史に対して、必要な作業だと思いませんか。

                                                    池田晶子 九通目の手紙 p195

 

 そして陸田氏は十三通目の手紙で理性(ロゴス)を通して彼自身の「罪と罰」を語る

 

その後、池田氏は手紙を書き、「理性(ロゴス)」について説明する。

 あなたの分析の全体を貫いている堅固な一本の道筋は、「理性」という「本能」です。人が人を殺せないのは、心理でも倫理でもなく、「理性という本能」の一文には、私は深い納得を覚えました。納得を覚えたのは、やはり私のうちの「理性という本能」が、納得を覚えたからでしょう。そして、これがまさに「理性は普遍である」というそのことなのですが、しかし一方で、にもかかわらず殺人を犯して今それを悔いているのは、池田晶子ではなくて、まぎれもなく陸田真志であるわけです。あなたが、自分の過去を分析するために、思い出そうと努めて思い出すことができるのも、陸田真志の行動と心理に限られていて、池田晶子のそれらを思い出すことは、絶対にできないわけです。

...

 理性とは、別名「言語」です。「ロゴス」は本来、ふたつの意味をもっています。あなたはこれまで「理性」の語を、「事柄を判別する反省的意識」の意で用いてきましたが、事柄が事柄になるためには、先にそれが言語によって定立されているのでなければなりません。とにかくまず事柄を、言語によって「語り出す」ことなしには、じつはそれを判別することもできないわけです。

「太初(はじめ)に言葉ありき」

「なぜ」存在するのか、「なぜ」それをしたのか、という問いは、じつは必ず一歩、遅れています。だから、「とにかくまず」語り出してみること。神が、「光、在れ」と語り出すことで、この宇宙が始まったように

...

                                                          池田晶子 十通目の手紙 p220-223

 

ヨハネ福音書の冒頭

神は言った。「光、在れ」

すると、光が在った。「太初(はじめ)に言葉ありき。」

言葉は神とともにあった。言葉は神であった

 

ヨハネ福音書冒頭の文言は、存在と言葉の関係の核心をいきなり語り出すことで、そのまま宇宙創世記となり異色だが、まさにそういうことなのである。万象の根源としての御言葉とは、すなわち「ロゴス」である受肉したロゴスがわれわれである。だから、正しく語られた言葉は、万人を根源から動かすのである

 

                 池田晶子「ロゴスに訊け」p114

 

発語以前に「事実」は存在せず、発語することで「事実」となる。自身自身を内省せず、言葉自分の支配できる道具であると思い込む精神には理解し得ないだろうが、感受した「存在」を問い続ける、または自覚し続ける精神には、同様の「存在」を共有する精神が理性により紡いで発語、または表現した「思想」が、紛れもなく己自身であると分かる。それは自他の区別を超えた、遍在した精神だからである。遍在した精神こそ、神なのである。遍在した精神が語る言葉、それがロゴスである。その「ロゴス」を感受、自覚し、自ずから欲求しない限り、理性も、倫理も、精神も育たない。理性(ロゴス)を育て、動物的本能から理性的本能を獲得した陸田氏だが、可能性は誰にでもある。この記事を読んでいる方も、是非、古典や優れた書物を読み、理性」が自身に内在していることを自覚して欲しい

 

善(イデアは魂に超越的に内在するこの原事実を直観もしくは論理(ロゴス)の力により自覚しない限りいかなる外在的道徳善ではない。なぜなら、とは、自分にとって善いという以外にはその意味ではあり得ないからである。

                                                         池田晶子「ロゴスに訊け」p212

 

おわりに

2020年のユニセフの幸福度調査では「精神」の順位が先進国38カ国の中で日本はワースト2位との事だったそうだ。現代の読書、活字離れの当然の結果である。内省しないからである。問いを所有しないからである。死を考えないからである。

 

考えることで、人は、必ず、変わる。

 

人生の生き方の構えや態度が、自ずと明確に変化したと自覚できるのは、自身が「精神」であると判然と理解する精神だけであろう。池田氏や陸田氏の個別的な肉体は今はこの世にはいないが、二人の精神、いや我々の普遍的な精神だけは、不滅の「言葉」として在り続けるだろう。「意匠」「思想」となった「言葉の力」は、現代に跋扈する愚劣な言葉を越えて、北極星のように燦然と輝き続けるだろう。

 

 

文中の引用

『死と生きる 獄中哲学対話』池田晶子, 陸田真志/新潮社

『さよならソクラテス池田晶子/新潮文庫

『残酷人生論』池田晶子/毎日新聞社

『人間自身、考えることに終わりなく』池田晶子,新潮社

『リマーク1997-2007』池田晶子/トランスビュー

『ロゴスに訊け』池田晶子/角川書店

虞美人草夏目漱石/新潮社

プルーフ・オブ・ヘブン』エベン・アレグザンダー , 白川貴子訳/早川書房

『事象そのものへ!』池田晶子/トランスビュー

『考える人 口伝西洋哲学史池田晶子/中公文庫

ソクラテスよ、哲学は悪妻に訊け』池田晶子/新潮文庫