ATFL’s diary

文学や哲学の本について紹介します。疲れたときには形而上、死後へ帰る時間 

池田晶子「メタフィジカル・パンチ 形而上より愛をこめて」直観:わかるということ

 池田晶子氏の著書を読み進める日々を過ごしている。出来れば池田氏の著書は全部読もうと決心している。私が池田氏の言葉と出会ったのは、ある方のブログを見た時である。中学の国語の教科書に載っている「言葉の力」を読み、言葉の大切さを感じ取ると同時に、真摯に、心の底から相手に訴えている事を感じた。感じた、というより、この言葉は自己の精神に既に了解されていたと表現すべきだろうか。私が本を読んで印象的に残る言葉をメモしているアプリ(Evernote)の筆頭に、彼女のこの言葉を登録している。

 

池田晶子「言葉の力」

 

言葉信じていない人は、

自分のことも信じていない

 

しかし、

自分を信じていない人生を生きるのは、

とても苦しくて大変だ。

 

言葉ではああいったけれども、

本当はそうは思っていない

 

そんなふうにしか生きられない人生は不幸だ

 

言葉と自分が一致していない人生は不幸だ

 

だから、本当の自分はどこにいるのかを、

人はあちこちを探し求めることになる。

 

しかし、

本当の自分とは、

本当の言葉を語る自分でしかない

 

本当の言葉においてこそ、人は自分と一致する

 

言葉は道具なんかではない。

 

言葉は、自分そのものなのだ

 

だからこそ、言葉は大事にしなければならないのだ

 

言葉を大事にするということが、

自分を大事にするということだ

 

自分の語る一言一句が、

自分の人格を、自分の人生を、

確実に創っていくのだと、自覚しながら語ることだ

 

そのようにして、生きることだ

  

言葉には、万物を創造する力がある。

言葉は魔法の杖なのだ

 

人は、魔法の杖を使って、どんな人生を創ることもできる

 

それは、その杖をもつ人の、この自分自身の心の構え一つなのだ

 

 それから、彼女の著書「知ることより考えること」、「帰ってきたソクラテス」などを読み、考えることの大切さ、真実を捉えるための精神が鍛えられた。

 「何を」考えているのか

 それは「生きて死ぬこと」、即ち「生(在る)と死(無)」である。人生の最も当たり前なことについて、池田氏は生涯を通じて考えているのだが、今回はこの当たり前なことが、「わかるということ」、これについて述べていきたい。ここで注意して欲しいのは、この「わかるということ」、論理だてて納得する「わかる」こととは違う理解の仕方なのである。それが「直観」である。池田氏の著書「メタフィジカル・パンチ」では、池田氏は「小林秀雄への手紙」で「直観」を「わかるということ」としている。

 

「直観」という言葉が誤解されやすいなら、私はそれを「わかるということ」と言い換えてみようと思います。

池田晶子メタフィジカル・パンチ」p213

 

  では、その「直観」としての「わかる」と、論理としての「わかる」との違いは何なのか。それは、人の「生(在る)と死(無)」の最も当たり前な事柄を「確信すること」が「直観」としての「わかる」であり、端的な論理で理解することが「わかる」であると、考える。この「生(在る)と死(無)」、小林秀雄氏はそれを「常識」としている。

 

常識とは、私たちが居る、というこのことである。そんなの常識じゃないか。君は言うだろう。そうだ、常識だ、まさにこれこそが常識なのだ、この常識、この自明さに、君は驚くことができるか。...

                                           池田晶子メタフィジカル・パンチ」p31-32

 

小林秀雄氏も、この端的な事実を、このように述べている。

<私が、常識という言葉は、定義を拒絶しているようだと言ったのは、この働きには、どうしても内から自得しなければ、解らぬものがある、それが言いたかったからなのです>

            池田晶子メタフィジカル・パンチ」p32

 

 論理のうえで納得するということと、「内から自得してわかる」ということは、全然違う「わかる」なのだということが「わかった」そのとき、初めて人はそれをわかるのである。

                                           池田晶子メタフィジカル・パンチ」p33

 

哲学の必然とは、常識への確信だ。

常識が先に在るからこそ、哲学が成立し得るのだ。

            池田晶子メタフィジカル・パンチ」p122

 

「常識」を「確信すること」、あまりにも明瞭である私たちが「生きているということ」、言い換えると「存在していること」、「存在」、「在る」こと「確信」するためには...

驚き

これは本当に大事なのである。この「直観」が成立するための「確信」も、「驚き」があってこそ「わかる」のである。私がこのようにブログでもって言葉を書き散らしている理由も、この「驚き」があってこそなのである。

 

人が何かを疑い、その疑いから考え始めるためには、その何かへの驚きがまず必然なのだ、哲学は驚きからのみ始まり得ると

                                                            池田晶子「残酷人生論」p237

 

ほう、では何に驚いたというのだね、ATFLよ

答えよう。それは人間である上で「最も当たり前」な事実、「死(無)」を認識した時である。大学1年生の夏、学校が終わり帰路のバスの中で、夏目漱石の「虞美人草」を読んでいた際、「驚き」に出会った。

 

 

忘るるものは贅沢になる。...贅沢は高じて大胆となる大胆道義蹂躙して大自在に跳梁する

                夏目漱石虞美人草」p453

 

 

 驚き、とともに一瞬絶句した。そしてこの文章を眼で追いつつ、脳裏にはこの三行の言葉から滲み出る骨格のない内容が浮上した。それを言葉にすると、人に対する侮蔑、軽蔑、嫌がらせ、セクシャル、パワーハラスメント愚劣な人間人の最も当たり前な事柄である「死」忘れるが故に非行に走ると、私は「直観」でわかったのである。事実漱石は書いていた。

 

道義重(おもき)置かざる万人は、道義犠牲にしてあらゆる喜劇を演じて得意である巫山戯る。騒ぐ。欺く。嘲弄する。馬鹿にする。踏む。蹴る悉く万人が喜劇より受くる快楽である

                                                         夏目漱石虞美人草」p454

 

 疲れていたため鉛の様に重たい瞼が豁然と開き、刮目した。そして、この言葉は、「正しい」と、深く内から自得、確信したのである。漱石の身体を通して語られた「無私の精神」が、私自身の精神と絡まり合い、合致した。この言葉との出会いが、今、ブログを書いている絶対原点であり、さらなる真実を追求したいと意志する「自ずからの姿勢」の契機でもあり、その捉えた真実の言葉を相手に伝えたいために書くという、私の倫理観なのである。言霊の力かもしれない。「memennto mori(死を忘るるなかれ)」。では、そう自身の死を見つめた上で、問いが生まれた。将来先にあるものではない、今、ここに在る「死」とは何か。

 

..二千年前も、今日ただ今も、哲学は、<mortality:死すべきこと>の気づきにのみ発生する。 ...

                                       池田晶子「考える人 口伝西洋哲学史」p112

 

現代はが身近でないから死のことをうまく考えられない、ともよく聞くが、それは、自分がいかにものを考えずに生きているかを威張っているようなものである。...自分の死はいま生きている君のそこにあるではないか。なぜそれを考えられないのか。

             池田晶子メタフィジカル・パンチ」p95

 

 しかし、漱石の言葉を契機として、「死」を考えているのだが、これがまた「わからない」のである。この世から「存在しなくなること」である「死」、「無」であるが故に「 」。人は「 」を考えられるのか。「 」であるなら、それを恐れる道理はあるのか。

 死は、考えてみると「無」なのである。

 けれども、不可視の言葉で考えると「無」である死は、可視的なこの現象世界では明らかに存在している、死ぬ。身体は滅ぶが、思惟する精神に死は存在しないのである。

 さらに、ここでまた考えてみほしい。人が「無」、言い換えると「ない」と言う時、それは「何か」が「ある」から「ない」と言えるのではないか。

 

Aがある、Aがないと考えることができる自分の思考のうごめきを観察せよ。「ない」なしに「ある」と言うことはできない。「ある」のない「ない」はない。「ある」あっての「ない」であり、「ない」あっての「ある」である、こういう言い方のうちに既に、「ある」と「ない」とは同じであって同じではなく、しかも両者があざなわれた縄のようになって運動始めているのが、観察されますね。これが、その名も高き、「弁証法的統一」である。そして、歴史の基礎である。

                                           池田晶子「考える人 口伝西洋哲学史」p31

 

 思惟した刹那に、「無」と化す「死」。その「無い」の裏側には何が潜むのか。「在る」である。「在る」、「存在すること」、「私たちが生きている」という経験である。では、「在る」とは何か。決して滅ぶことのない、不滅の存在、不死なる存在である「在る」とは何か。

 

..二千年前も、今日ただ今も、哲学は、<mortality:死すべきこと>の気づきにのみ発生する。翻って、<immortality:不死なるもの>とは、と問うところに成長する

                                       池田晶子「考える人 口伝西洋哲学史」p112

 

この「<mortality>」と「<immortality>」 、両者を鎖で繋いだ様な関係にあることを、「統一性(ユニテ)」という言葉で小林秀雄氏は名付けている。

 

哲学は、統一性に到着するのではない、統一性から身を起こすのだ」

                                            池田晶子メタフィジカル・パンチ」p219

 

 哲学的精神は常に、統一性を目指すものではなく、統一性から引き返してくるものです、烈しい反省の力(理性)によって統一性とは、机上の諸概念の脳中での総合のことではない。それは、今、在るということ、この解り切った体験(存在)のことだ。

                                            池田晶子メタフィジカル・パンチ」p220

 

書く側と読む側に共有され、しかも、共有されているというそのことが自覚されていなければならない当のものそれは、「統一性」である統一性への端的な確信である。では、統一性とは何か。

 聞き慣れた言葉で言い換えよう。それは、「常識」だ。我々が我々として、かく、在る、このことを統一性と言い、また常識と言うのだ。哲学は常識に到着するのではない、常識から身を起こすの。しかし、身を起こし得るそのためには、あらかじめ何が信じられていなければならないのか。言うまでもない、常識である。身を起こし、思惟し、再びこの常識へと帰還することである

                                              池田晶子メタフィジカル・パンチ」p122

 

  統一性、言い換えれば常識を観るためには、「直観」が大事なのである。時を抗して石のように動かない古典の言葉の紙背にある著者の精神を、自身の狭隘な自我を滅却して、自身の精神の運動と即して観る事が大事であると、考える。「内から自得」するには必須なはずである。

 

 この力強い直観力を、読む側と書く側が確信し、共有することで、確信された言葉は、必ず常識から身を起こして思惟された「思想(意匠)」となり、何時の時代でも燦然と輝いているのだろう。

 

...思想とは、或るひとつの明らかな統一性を示す想念群の謂です。貴方(小林秀雄氏)はそれを「意匠」というふうにおっしゃった。

                                                池田晶子メタフィジカル・パンチ」p193

 

 その時、古典を読む自身の精神と、著者の精神が合致する。直観を通して人は、過去の偉人や聖人の精神と交わる事が出来るのであると、考える。

 

生とは、それ自体が、動いてやまない精神の運動である。この事実を自身の生として承認さえするなら、固定されているように見える古典の言葉の背後に、動いてやまないその精神の運動を見るはずである。そしてその精神の運動に即して動いている自身の精神の運動をも感知するはずである。「思ッテ得ル」とはこのことだ。なるほどある言葉はその意を担っているように見えることもある。しかしその言葉を自身の生の運動のうちに置いて、いま一度眺めてみよ。また違った意を担っているようにも見えてくるではないか。生とはそういうものではないか。言葉を媒介にして、聖人の精神と自己の精神とが、混然と絡まり合いつつ動いてゆくのを味わう喜び、この時、普遍性は、知ろうとする以前に知られているではないか。学問とは、この喜びを知らしめること以外ではないのではないか

              池田晶子「新・考えるヒント」p128 

 

 著者の精神が、自己の精神であったと判然と自覚、認識する時の喜びは、本当に味わい深いものである。そして常識から身を起こした文章をさらに認識したい、読みたいと思う意志、この倫理観も大事にしていきたい。

 

知ることへの欲望とは、まぎれもなく真理への意志である。

             池田晶子メタフィジカル・パンチ」p184

 

おわりに

 広大無辺な宇宙の不可解な存在、それを確かに賢人達も観ていた。この確信を手放さずに古典を読むこと、経験した自身の確信を自覚し読むこと、そう自覚することで、存在の絶句の息遣いを、逆説や晦渋な言語表現で騙ろうとする著者の精神が、紛れもなく己の精神である事に気が付くのである。古典を読むとは、自己を読むことに他ならないからである。この力強い直観力を磨く為にも、古典にある真の自己と出会い、思索の日々を送りたいと、考える。

 

参考文献

メタフィジカル・パンチ 形而上より愛をこめて』池田晶子、文春文庫

『残酷人生論』池田晶子毎日新聞社

虞美人草夏目漱石新潮文庫

『新・考えるヒント』池田晶子講談社

『考える人 口伝西洋哲学史池田晶子、中公文庫