池田晶子 陸田真志「死と生きる 獄中哲学対話」 言葉の力
1960年、東京生まれ。慶應義塾大学哲学科卒業。哲学用語によらない哲学の文章表現活動を、様々なジャンルで展開した。著書に、対話編三部作『帰ってきたソクラテス』『悪妻に訊け』『さよならソクラテス』他、『事象そのものへ!』『オン!』『メタフィジカル・パンチ』『睥睨するヘーゲル』『残酷人生論』『知ることより考えること』『14歳の君へ』等。2007年2月死去。
陸田真志という強盗殺人事件を犯し、1998年に死刑判決を受けた者が、拘置所にいる間に池田氏宛てに手紙を送り、その内容が面白い事から、「哲学者」と「死刑囚」の獄中往復書簡が始まる。それら手紙のやりとりをまとめたものが今回紹介する本である。
一通目の手紙の前半では、拘置所内で過ごす陸田氏が、自身の犯した罪に向き合い、自身を責める内容が書かれている。
生まれてからこれまでの自分の生き方を考えれば、ただただ浅ましく、外国に行ってまで犯罪組織に入り、それで逮捕、拘置された事さえ、世間を怨みに思うような、全くひどい、己れと金と暴力しか信用しない生き方しかしておらず、誰か一人の人間に対してさえ、何もしてやれた事がない事を考え、がく然となりました。...
陸田真志 一通目の手紙 p13
その後、トルストイ、聖書などを読み、「よい人間」に努めようと思うも、矛盾する考えが生じ、苦しむ日々が続く。そんな中で新聞に掲載されていた池田氏の記事を読み、「何か」がわかる思いがする。この記事の内容は、「金銭的な良いと精神的な善いは違う」との記述らしいのだが、これは「さよならソクラテス」の中でも紹介されている。
金で手に入るよいものと、金では手に入らないよいもの、「良いもの」と「善いもの」、すなわち、経済的価値と哲学的価値とは別の話なのだ。このふたつの価値をごっちゃにするところから、金儲けは卑しいとか、清貧それ自体が素晴らしいとか、今や心の時代なのだとか、妙な話になってゆくのだ。...人は、金によって良い物が手に入ることに慣れてくると、金それ自体を良い物と思うようになる。...困ったことはだね、このとき人々は、よいものは金で手に入るものという考え方に慣れすぎていて、金では手に入らないよいもの、すなわち、「善」という価値の欲し方がわからないということなのだ。いくら金を積んでも、金を貯めても、善だけは手に入らないのだ。なぜなら、いいかね、善は、タダだからだ。せっかくタダなのに、金なんぞ要らんのに、善というよいものを、気の毒に、人は手に入れることができないのだよ。
「...善と善なる魂においては、売り買いという考え方はもはや成立しないのだ。この交換は、売り買いという言い方では言えない。どっちが売って、どっちが買ったと言うことは不可能なのだ。買った方にしてみれば、買ったつもりで、その魂を善に買われたとも言える。売った方にしてみれば、売ったところで、その魂から善がなくなるわけでない。なぜなら、いいかね、善は、無尽蔵だからだ。無尽蔵であって、誰のものでもないからこそ、善は、力なのだ。決して尽きない力となるのだ。したがって、金に魂を売るなんてことが可能だと思ってるのは、金に魂を売ることが可能な魂でしかない。つまり、善ではない魂だけが、魂を金に売ることができるというわけだ。これをもう一度裏から言うと、哲学することが可能なのは、やはり善なる魂だけだということなのだ。」
池田氏の本を読み、ソクラテスの弁論術に従って「正しい、違う、正しい」と正しく判断していた陸田氏自身は、「正しい」と分かる自分に気づきながら、「ソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン」、「さよならソクラテス」を買い求め、 自身の真実に気づく。きっと「弁明」のこの言葉である。
…死を恐れるということは、いいかね、諸君、知恵がないのに、あると思っていることに他ならないのだ。なぜなら、それは知らないことを、知っていると思うことだからだ。なぜなら、死を知っているものは、誰もいないからです。ひょっとすると、それはまた人間にとって、一切の善いもののうちの、最大のものかもしれないのに、彼らはそれを恐れているのです。つまりそれが害悪の最大のものであることを、よく知っているかのうようにだ。そしてこれこそ、どうみても、知らないのに、知っていると思っているというので、いまさんざん悪く言われた無知というものに、ほかならないのではないか。…
…死をまぬかれる工夫は、たくさんある。いや、むずかしいのは、そういうことではないでしょう、諸君、死をまぬかれるということではないでしょう。むしろ下劣をまぬかれるほうが、ずっとむずかしい。…
プラトーン「ソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン」p45,75
…諸君、こういう議論にこそ僕は、まっすぐに答えよう。生きるか死ぬかよりも先に、恥を知りたまえ。死を免れることよりも、下劣を免れることの方が、はるかに難しいことなのだ、と。
僕は、いかなる場合であれ、死を恐れたことがない、なぜなら、いいかね、死を恐れるということこそ、人間の無知のうちの最大の無知、すなわち自ら知らないものを知っていると思い為すことに他ならないからだ。死は、ひょっとしたら、最大に善いものかもしれないのに、人はそれを最大の害悪であることを知っているかのように恐れるのだ。けれども僕は、死を知らない。知らないということを、はっきりと知っている。ゆえに僕は、死を恐れることなく、正を知ることを欲するのだ。
「死を恐れず、下劣である事を恐れる」、それを知り、又、獣としか思えなかった私にも善を求める心がある事、あった事がわかり、やっと自分自身を卑下する考えから解放されました。そして、死も神も自由も孤独も権力も概念に過ぎない、そう知って、初めて何者も恐れず、何物にもとらわれない、真に自由な自分自身の魂をとり戻せた思いです。そして、その「善」が在る事。それを求める心が、自分にもあった。その事実にこそ、「神」が存在する、そう信じています。
陸田真志 一通目の手紙 p17
死への恐怖から逃れる、または目を逸らして、ひたすら金銭や快楽に執着しようとする己の下劣さ、卑しさをこそ恐れなさい、と。そうした死への恐怖や、思い込み、執着を、古典や書物を読んで自己と向き合い考えることで、手放す、解放する。そして本来の自己である「捉われのない精神」を取り戻すことこそが、真実である。その真実に近づこうと姿勢は、元々我々が真実を知っていたからであろう。真実は自身の外側にあるものではなく、自分自身に内在しているのである。何ものでもない自分(即ち一切合切が自分であること)、こだわりのない、捉われない自由な精神に近づこうと目指し続ける姿こそ、真実としての神が、人類に対して求めている姿なのではなかろうか。
人間のもっとも深いところにある正真正銘の自己は、完全に自由である。過去、地位やアイデンティティといった要件にはめれたり、型にはめられたりはしない。正真正銘の自己は、この俗界には恐れるものはないことを承知していて、富や名声、支配などに頼って自らを構築する必要性を認めない。これこそが純粋な霊的自己、人類がいずれ立ち返る定めにある姿なのだ。だがその日が来るまでは、できる限り努力して、そのようなすばらしい側面に触れ、それを育み、引き出すことに力を尽くさなくてはならないのだろう。”それ”はたったいまもわれわれの内に息づき、人類に対し神が真に意図する姿にほかならない。
エベン・アレグザンダー「プルーフ・オブ・ヘブン」p121
真実を認識した陸田氏は、公判で裁判官に対して死刑を恐れることなく答弁する。
「死刑になってもならなくても、よく生き、死んでいく事、正しくある事が、私がこの先できる唯一の償ないだ」
陸田真志 一通目の手紙 p17
この手紙を読んだ池田氏は内容を絶賛し、陸田氏に返事を送る。
あなたは、ソクラテスの言葉を、見事に正確に理解していらっしゃいます。「わかる人」には、これは、あまりに当たり前のことなのです。ところが、この当たり前のことが、世のほとんどの人には、じつは、全く、わからないのです。もっと言えば、ソクラテスの刑死以後二千五百年、人類はいまだにその意味を理解していないのです。だからこそ、現代世界は、二千五百年かけて、ここまで堕落してきたと言っていい。
・・・
二千五百年後のあなたが、ソクラテスに共感することができたのは、彼が、善く生きることを自ら示してみせたためだということ。そして、プラトンという人が、そのことを書いて残したためだということ。示し、書き、残さなければ、善く生きるということを、人に伝えることはできないのです。そして、善く生きる といことは、明らかに、そのことを「人に伝える」ということを、含んでいるのです。
・・・
とにかく、これは、きわめて大事なことなのです。あなたのためでも、私のためでもなく、広く世の中のために、大事なことなのです。
・・・
あなたが救われたように、ほかの人も救ってあげて下さい。協力は惜しみません。
「善く生きる」という深い言葉の意味を、さらに大きく捉え直してみてはくれませんか。
池田晶子 一通目の手紙 p27-29
このような展開から始まる往復書簡だが、今回は私が印象に残った箇所の手紙のやりとりを紹介したい。私自身も、善く生き、死んでいきたい為に、真理をブログに書き示し、読む者に伝えたい思いである。
…純粋な霊的自己に近づく方法はあるのだろうか。その答えは、愛と思いやりを示すことだ。…霊的な領域はこれらによって構成されているのだ。
エベン・アレグザンダー「プルーフ・オブ・ヘブン」p122
1.死は不幸な事ではない
陸田氏は殺人を犯した罪としての罰である死刑制度を、自分自身を内省するための契機として人道的であると考え、逆に、内省する契機を与えない少年法は、非人道的であると考えている。
死は不幸な事ではない。万人にやってくる必然であり、本当に不幸なのは、生きている内に自己を考えず、知らずにただただ、金や食い物や、服や容姿や結婚や家族や健康や宗教やヤルだけの恋愛などだけを、自分の幸せと思って、ただ生きて、死ぬ時になって「それらがなければ、自分は幸せとは思えなかった。自分自身、自分そのものだけでは、幸せではなかった。自分そのものは生まれてから今まで不幸なままだった。それがないこの先も不幸なのか」。そう思いながら、不幸の中で死んでいく事、又は、それさえも気付けずに決して不幸ではない人生を終わる事。その事こそが「不幸中の不幸」と思えるのです。
私の罪とは、厳密に言えば被害者の命を奪った事より、彼らが彼ら自身の真実に気付き得た可能性を奪った事にあります。人間がその自己の真の目的に気付く潜在能力を有している。その事こそが万人に平等にある「人が人としてある」天賦の権利、「人権」であると思えるのです。その為のきっかけと時間を、罪を犯した者に与えてくれる死刑制度は、むしろ、非常に人道的であると思えるし、無理にその人間自身の罪悪を考えさせないようにする少年法や人権派の方が、むしろ、非常に人の道を外したものであり、その人間への「仁義」を見失っていると思うのです。
陸田真志 三通目の手紙 p31-32
陸田氏、池田氏が常に著書の中で訴えているのは上記の言葉(死について考えよ)なのである。なぜ私がブログでもって利己的な収益も得られるわけでもなくこのように言葉を書いているかというと、私自身も読む者に対して「死」について考えて欲しいからである。私自身も「死」について考えたことで、人生の生き方や態度が本当に変わったからである。態度や生き方が変わった契機となった言葉は、漱石のこの言葉である。
…死を忘るるものは贅沢になる。…贅沢は高じて大胆となる。大胆は道義を蹂躙して大自在に跳梁する。
…道義に重(おもき)を置かざる万人は、道義を犠牲にしてあらゆる喜劇(贅沢)を演じて得意である。巫山戯る。騒ぐ。欺く。嘲弄する。馬鹿にする。踏む。蹴る。…
驚きと絶句が走った。まさに哲学の「原点」である。「常に死を伴侶としない哲学などに、どれほどの力があり得るだろう」。人に対する侮蔑、軽蔑、嫌がらせ、虐待や女々しい虚栄心など、人間は自身の「死」を忘れるが故に非行に走るのだと漱石は書いており、陸田氏同様に、死を契機として書物を読み、言葉を求めるようになった。そして同じ様に、池田氏やソクラテスの「弁明」の言葉に触れて、死への恐怖や思い込みに捉われない精神が、真の自分自身であることに気付いたのである。人間には必ずこの真実に触れて、考えたいという「自己の真の目的に気付く潜在能力」を有している。自分が、確実に、死ぬ、このことを真剣に考えるか否かで気付くのである。このブログを読んでいる者も、必ずこの「能力」を有しているのだから、是非とも真剣に古典や本を読んで考えて欲しい。
有限の自分が「死ぬ」、「無」となっても、無限の宇宙は永遠に「存在」していること、「無」と「在」、存在論。このことを不思議と思う感受性や感覚を大事にして欲しい。頭で分かるのではなく、自分自身の感覚で、直観で、霊感で、捉えるのである。
…感じでわからないものは、何もわかったことにはならないということがわかるとき、それが「わかる」ということばが指示する全てであり、人類はこの出来事について、それ以外のことばを持っていないだけのことだ。
思想は思考に先立たず、思考は感覚に先立たない。そして感覚は、私たちの一切の経験の基底に存在しているものだ。
この単純な事実に気づかない人々が、空疎なことばを費やして、「無限」のうえに生き死ぬ私たちに、いったい何を教え説こうというのだろう。
池田晶子「事象そのものへ!」p24
人は自身の死と向き合い、死を超越することで、何ものでもない非人称の「私」であることに気付き、偉大な賢人たちの「思想」という名の「普遍性」を捉えることが出来るのである。宇宙を感受せよ。感受した霊感の源泉から湧き出る聖水に、恣意的な自我を除いた自身の思考を浸してみよ。そうすれば、賢人たちの淀みや手垢のついていない「言葉」で汲み上げた杯を手に入れることが出来る。目に見える個別的な自己を貫いた目に見えぬ普遍的な「私」、「存在」を常に自覚し見据え続けた「精神」だけにこそ分かる境地である。
…自身の深みから思想とよばれる普遍性を紡ぎ出して来ることができるのは、人称をもたない「私」だけだ。
池田晶子「事象そのものへ!」p173
淀みや個人的な解釈、人生観などに捉われない意識、「わたし」という人為的命名も拒み、何ものでもないから、全てが流れ込むことが出来る無色透明な意識こそ、「神」の名に相応しい「意識」、非人称の「私」である。
…あらゆる命名を峻拒しつつ、なおかつ在り続ける神ー人の意識こそ、既にして実現している絶対自由でなくて何であろう!-…
2.真理を語るということは、世を騙るということ
陸田氏が池田氏との往復書簡をする上で心配していた事がある。それが、彼の書く文章
が、大衆の読者に伝わるかどうかだった。
私が自伝を書きたくない理由の一つは、そこにあるのです。私が私を書いては、私の伝えたい示したい事は伝わらない。そう思えるのです。
私も自分の以前の姿を思えば、「非道、畜生」の上に「クソ、ド」が付くような人間でしたし、この私の手紙を読む読者の人も、やはりまず「あーあのSMクラブの」とか「あー、あのコンクリ詰め殺人の」とか考えるだろうし、読み終わったとしても、「こりゃ、拘禁されてるから」とか「まっとうじゃない人生歩んで人殺したから」とか、「死刑になる可能性があるから」とか考えるだろうし、私が「私の心の変化」を書いても、それが自分と同じ人間、自分の姿そのものだ、とは思わないだろうと思うのです。
陸田真志 三通目の手紙 p47
「死刑囚」という属性や続柄に注目して文章を読んでしまうと、自分とは違う価値観だから…と拒んでしまい、著者の精神が紛れもなく己の精神であることが分からずにいる人がいるかもしれない。そのため池田氏は「騙る」ことが大事であると返事を書いている。
「世は、騙り」、拙著のオビに私はそう謳いましたが、真理を語るということは、世を騙るということに他なりません。なぜなら、真理それ自体が不可解な逆説であるうえ、まさにあなたが言う通り、それは「わからない人には決してわからない」からです。そして、わかる人にはわかるのも、わからないということがわかるということだからです。
けれども、「わからない人には決してわからない」は、裏返し、「わかる人には必ずわかる」です。だから、ソクラテスは語り、プラトンは書いたのです。なぜか、黙って死んでもかまわないのに、なぜ彼らは語り、かつ書いたのか。
真理は、表現されるべきだからです。真理が、表現されることを欲するからです、原初の言葉(ロゴス)は、それ自体が真理であり、真理は自身の力の無限大の充実のゆえ、言葉により自身を表現し、自身を認識することを、必ずや欲するものだからです。真理の力とは、またの名、愛でもありましょう。まあ言ってみれば、これが、この宇宙が存在するというそのことなのですが、この続きは、来たるべき次の機会のお楽しみということに致しましょう。
なぜソクラテスは書かず、プラトンが書いたのか。しかも、対話体という手の込んだ形式によって書いたのか。
これも、あなたが的確に指摘した通り、真理は誰のものでもなく、その表現、伝達のためには、生身の表現者は、いったん身を隠す必要があるからです。私もまた、池田某が書くのではなく、ソクラテスが語るのを書くという形式をとりました。ソクラテスというビッグネームが語るのでなければ、誰も池田某の言うことなんか聞きゃしませんから。語るべき相手
に語るためには、幾重にも屈折した技、すなわち騙りが必要だということです。けれども、それでも、だからこそ、「わかる人には必ずわかる」。
池田晶子 二通目の手紙 p57-58
騙るということ、すなわち虚構(フィクション)である。
唯一、我々の祖先であるホモ・サピエンスだけが、他の人類種を淘汰し、制圧する事が出来た。その理由には、他の同種族と連携してコミュニケーションを取って移動したり、あの山の神により我々は守られているのだ、というような、他の種族にはない、虚構(フィクション)を作りだす事が出来たからだ(認知革命)。虚構は小説や物語の中で完結するものではない。虚構により国家、貨幣、多神教を作りだし、今の資本主義、社会主義、優生思想などのイデオロギーも、まごうことなき虚構が作り出した産物に過ぎない。
このように、人は言葉により語(騙)られた「考え」により行動している。
人間が行動するのは、おしなべて「考え」による。「考え」によって、人は意志し行動し決断する。人はこのことを、自分の思考において明確に表象できるようになるべきだ。決断に逡巡する英雄の胸中にあるもの、それは「考え」だ。引き金を引く指も、前進する戦車も、あれらすべて「考え」だ。可視的表象に騙されてはならない。可視的なものを動かしているのはすべて、そのように考えている人間の「考え」なのだ。
「人間」の語で、人は多く、この可視的形姿を表象するようだから、私はあえて「人間」ぬきの、「考え」の語のみで言いたい。「人間」が動いているのではない、「考え」が動いているのだ。歴史を動かしてきたものは、英雄でも戦争でもない、またその背後の誰か思想家でもない、不可視の「考え」だ。表象における映像を警戒せよ。
池田晶子「残酷人生論」p104-105
フィクションとは真実を語るための嘘だ。
虚構により騙られた言葉、それが個別的な自己を超えた普遍的な「思想」ならば、「存在」を自覚し見据えた「意識」には分かるのだが、それでも各人の意識は別々なのである。自己意識は別々なのである。「真理」である「思想」は「普遍」であるのだが、認識するのは「個別の意識」であるという逆説。個々の意識は一つの意識、一つの絶対精神は個々人の絶対精神、「一即多」、「多即一」。「存在」について全ての精神が考えていても、肉体は個々に存在するのだから、「個人の絶対精神」となる。だからこそ、虚構により騙られた「思想」でも、「存在」を自覚し続ける意識だけには、自ずから分かれてきたところの出自を自覚する精神には、必ず分かる。
3.陸田氏の控訴・善く生きることは努力し続けるということ
往復書簡を始めてすぐの事なのだが、陸田氏が控訴しない場合、彼は他の収容所に移動してしまい、その後一切連絡が取れなくなる。その事を池田氏は手紙で書くのだが、陸田氏は依然として控訴する気はなかった。
私が控訴したとして、池田様には「これは善く生きる為、それを伝える為だ」と思ってもらえても、彼らは「これはいのちが惜しいのだ」そう思うであろうと、やはり私は思うのです。...
陸田真志 四通目の手紙 p74
陸田氏の手紙に対して、池田氏は三通目の手紙を出す。
...あなたは、自分ひとりで完結してかっこよく死ねば、それが「普遍的な考えとして伝播する」と思っているようですが、どっこい、人の世は、そうそううまくは生きません。今なら、あいつは自分ではかっこよく死んだと思って死んだと思われるだけで、あなたの死も、あなたの考えも、たちまち忘れられて、それでおしまいでしょう。人に忘れられても自分はかまわないのであれば、それではちっとも善く生きたことにならないではないですか。
何度も繰り返しますが、ソクラテスがかっこよく死ねたのは、やるべきことをやったからです。伝播されるべき言葉を残したからです。やるべきことをやらず、言葉も残していないあなたは、かっこよく死ぬどころか、じつは善く生きてさえいないということです。
...
「善く生きる」ということは、「善く死ぬ」ということではありません。あなたの考えからは、その間が、スポッと脱落している。「善く生きる」ということは、そのように「努力する」「努力を続ける」ということ以外ではありません。死ぬなんてのは、いつでも誰でも死ねるのだから、いかなる努力も要らないのだから、努力して生きる、努力し続けるということこそが、「善く生きる」というそのことになるのです。
あなたはまだ、いかなる努力もしていません。努力を放棄して、死ぬつもりですか。
「できることなら、わからない人、わかりそうにない人にもわからせたい」と、自分でも言っているではないですか。そのために、どれだけの努力をしたというのですか。
あなたにとって、最もわからない人、わかりそうにない人とは、誰ですか。
言うまでもない、被害者の御遺族でしょう。あるいは自分の家族でしょう。本当に善く生きる気があるのであれば、誤解され、罵倒されながら、あなたがわかったことを、彼らにわからせる努力をするべきではないですか。「死ぬ」という、いかなる努力も要しない最も安楽な方法によって、そもそもわからない人が、どうしてわかるはずがありますか。
池田晶子 三通目の手紙 p83-84
池田氏の珠玉の言葉により、陸田氏は控訴する。
その後、陸田氏の手紙は社会への批判的な文章が多くなり、池田氏にアドバイスをもらいながら修正してゆく。
…他の誰かではない「陸田真志」の立場での、思索の深化をはかること。表現は、あとからついてくるでしょう。
禅のほうで、「増上慢」もしくは「未徹在」という言い方があります。小僧の「生悟り」を戒める言葉ですが、「気づく」ことはじつは易しく、それを「保つ」もしくは「為す」ことのほうがよほど難しいのだ、といった含みもありましょう。
「一瞬にして全てが見えた」とか、わかった、悟った、解脱した、と「思う」瞬間は、じつはそんなに珍しいことではないのです。そうではなく、「わかった」そのこと、絶対としてのその質を、この相対界、この人生において生きること、生き通すことの、いかに困難であることか。「悟後の修行」が大事です。「努力」という、古臭いような言葉で私が言おうとしているのも、そのことです。
人は、一度わかったことを、忘れます。意識的に、自覚的に、努めない限り、わかったことを忘れてしまうのです。独房の中といえど、そこも人の世ですから、大なり小なり雑音は届くでしょう。そのような雑音を雑音として取り込まずに、自分を維持していけるかどうかが、分かれ目です。
池田晶子 五通目の手紙 p116
名言や箴言、偉人達の格言など、心に響く言葉は多岐にわたるが、その言葉を自覚して生きることは、本当にその言葉により表されている真理を理解、認識しないと、維持する事は難しい。 私自身、意識的に、自覚的に、努めなければならないと、認識出来たのは、漱石の言葉だった。「死を忘れるな。死(本質)を忘れる奴が、欲得を満たそうと(贅沢)して、道義を蹂躙するのだ。」それ以来、上記の様に、印象的な言葉、真理を表している言葉があった時は、しっかりと書き留めて、後で見返して出来るだけ頭に入れる様に努め、今、自分が出来る事、目の前の事に取り組む様に努力している。その目の前の事に向き合う意志、姿勢の構えは、偉人達の言葉により表された真理、「考え」である。その「考え」を自分が死ぬ時まで貫けるか、常に自らに問うことで、自覚する様にしている。
道は決して自明なものではない。だからこそ常に自らに問うことで、人は自らの道を確認するのだ。ダイモン(鬼神)はそこにいる。生活がどうあれ、世評がどうあれ、自分にはこうとしかできないのだと。
というわけで、他人のことなど知ったことではない。どこまでゆけるか。私は私の道を行く、我がダイモンを道連れに。
池田晶子「人間自身、考えることに終わりなく」p132
…僕は精神主義的な人が好きだ。精神主義的な人とは、真・善・美について考えることをやめない人だ。それらが何なのであれ、あるいは何ものでもないのであれ、それでもそれらがそれらであるということで、決して手放さない人だ。なぜか。なぜ手放さないのか。それは、それらが人間の精神の理想だからだ。それらがそれらであるのでなければ、僕らの精神が精神であるということがもう意味をなさないからだ。…
4.理性こそ人間の本能
書簡のやりとりも終盤に入り、池田氏は陸田氏に対して、人を殺す時の心境を語って欲しいと手紙に綴る。
あなたは、「歴史」の側については、今や透徹した視野を獲得しつつあると思います。だからこそ、いま一度、「実存」の側、人を殺すという尋常ならざる経験をもつ者として、人間心理の不可解を語ってほしい。人を殺すということは、「なぜ」苦しいものなのか、「いかに」苦しいものなのか、あるいは、そもそもそれはいったい「どういうこと」なのか。なぜ人は人を殺すのか。「ラスコーリニコフの苦悩」を、もっと生な言葉で聞いてみたい。この仕事は、少なくともいま現在の日本において、あなたにしかできません。そして、次なる歴史に対して、必要な作業だと思いませんか。
池田晶子 九通目の手紙 p195
そして陸田氏は十三通目の手紙で理性(ロゴス)を通して彼自身の「罪と罰」を語る。
その後、池田氏は手紙を書き、「理性(ロゴス)」について説明する。
あなたの分析の全体を貫いている堅固な一本の道筋は、「理性」という「本能」です。人が人を殺せないのは、心理でも倫理でもなく、「理性という本能」の一文には、私は深い納得を覚えました。納得を覚えたのは、やはり私のうちの「理性という本能」が、納得を覚えたからでしょう。そして、これがまさに「理性は普遍である」というそのことなのですが、しかし一方で、にもかかわらず殺人を犯して今それを悔いているのは、池田晶子ではなくて、まぎれもなく陸田真志であるわけです。あなたが、自分の過去を分析するために、思い出そうと努めて思い出すことができるのも、陸田真志の行動と心理に限られていて、池田晶子のそれらを思い出すことは、絶対にできないわけです。
...
理性とは、別名「言語」です。「ロゴス」は本来、ふたつの意味をもっています。あなたはこれまで「理性」の語を、「事柄を判別する反省的意識」の意で用いてきましたが、事柄が事柄になるためには、先にそれが言語によって定立されているのでなければなりません。とにかくまず事柄を、言語によって「語り出す」ことなしには、じつはそれを判別することもできないわけです。
「太初(はじめ)に言葉ありき」
「なぜ」存在するのか、「なぜ」それをしたのか、という問いは、じつは必ず一歩、遅れています。だから、「とにかくまず」語り出してみること。神が、「光、在れ」と語り出すことで、この宇宙が始まったように。
...
池田晶子 十通目の手紙 p220-223
神は言った。「光、在れ」。
すると、光が在った。「太初(はじめ)に言葉ありき。」
言葉は神とともにあった。言葉は神であった。
ヨハネ福音書冒頭の文言は、存在と言葉の関係の核心をいきなり語り出すことで、そのまま宇宙創世記となり異色だが、まさにそういうことなのである。万象の根源としての御言葉とは、すなわち「ロゴス」である。受肉したロゴスがわれわれである。だから、正しく語られた言葉は、万人を根源から動かすのである。
池田晶子「ロゴスに訊け」p114
発語以前に「事実」は存在せず、発語することで「事実」となる。自身自身を内省せず、言葉は自分の支配できる道具であると思い込む精神には理解し得ないだろうが、感受した「存在」を問い続ける、または自覚し続ける精神には、同様の「存在」を共有する精神が理性により紡いで発語、または表現した「思想」が、紛れもなく己自身であると分かる。それは自他の区別を超えた、遍在した精神だからである。遍在した精神こそ、神なのである。遍在した精神が語る言葉、それがロゴスである。その「ロゴス」を感受、自覚し、自ずから欲求しない限り、理性も、倫理も、精神も育たない。理性(ロゴス)を育て、動物的本能から理性的本能を獲得した陸田氏だが、可能性は誰にでもある。この記事を読んでいる方も、是非、古典や優れた書物を読み、「理性」が自身に内在していることを自覚して欲しい。
善(イデア)は魂に超越的に内在する、この原事実を直観もしくは論理(ロゴス)の力により自覚しない限り、いかなる外在的道徳も善ではない。なぜなら、善とは、自分にとって善いという以外にはその意味ではあり得ないからである。
池田晶子「ロゴスに訊け」p212
おわりに
2020年のユニセフの幸福度調査では「精神」の順位が先進国38カ国の中で日本はワースト2位との事だったそうだ。現代の読書、活字離れの当然の結果である。内省しないからである。問いを所有しないからである。死を考えないからである。
考えることで、人は、必ず、変わる。
人生の生き方の構えや態度が、自ずと明確に変化したと自覚できるのは、自身が「精神」であると判然と理解する精神だけであろう。池田氏や陸田氏の個別的な肉体は今はこの世にはいないが、二人の精神、いや我々の普遍的な精神だけは、不滅の「言葉」として在り続けるだろう。「意匠」「思想」となった「言葉の力」は、現代に跋扈する愚劣な言葉を越えて、北極星のように燦然と輝き続けるだろう。
文中の引用
『人間自身、考えることに終わりなく』池田晶子,新潮社
『プルーフ・オブ・ヘブン』エベン・アレグザンダー , 白川貴子訳/早川書房
池田晶子「メタフィジカル・パンチ 形而上より愛をこめて」直観:わかるということ
池田晶子氏の著書を読み進める日々を過ごしている。出来れば池田氏の著書は全部読もうと決心している。私が池田氏の言葉と出会ったのは、ある方のブログを見た時である。中学の国語の教科書に載っている「言葉の力」を読み、言葉の大切さを感じ取ると同時に、真摯に、心の底から相手に訴えている事を感じた。感じた、というより、この言葉は自己の精神に既に了解されていたと表現すべきだろうか。私が本を読んで印象的に残る言葉をメモしているアプリ(Evernote)の筆頭に、彼女のこの言葉を登録している。
池田晶子「言葉の力」
言葉を信じていない人は、
自分のことも信じていない。
しかし、
自分を信じていない人生を生きるのは、
とても苦しくて大変だ。
言葉ではああいったけれども、
本当はそうは思っていない。
そんなふうにしか生きられない人生は不幸だ。
言葉と自分が一致していない人生は不幸だ。
だから、本当の自分はどこにいるのかを、
人はあちこちを探し求めることになる。
しかし、
本当の自分とは、
本当の言葉を語る自分でしかない。
本当の言葉においてこそ、人は自分と一致する。
言葉は道具なんかではない。
言葉は、自分そのものなのだ。
だからこそ、言葉は大事にしなければならないのだ。
言葉を大事にするということが、
自分を大事にするということだ。
自分の語る一言一句が、
自分の人格を、自分の人生を、
確実に創っていくのだと、自覚しながら語ることだ。
そのようにして、生きることだ。
言葉には、万物を創造する力がある。
言葉は魔法の杖なのだ。
人は、魔法の杖を使って、どんな人生を創ることもできる。
それは、その杖をもつ人の、この自分自身の、心の構え一つなのだ。
それから、彼女の著書「知ることより考えること」、「帰ってきたソクラテス」などを読み、考えることの大切さ、真実を捉えるための精神が鍛えられた。
「何を」考えているのか
それは「生きて死ぬこと」、即ち「生(在る)と死(無)」である。人生の最も当たり前なことについて、池田氏は生涯を通じて考えているのだが、今回はこの当たり前なことが、「わかるということ」、これについて述べていきたい。ここで注意して欲しいのは、この「わかるということ」、論理だてて納得する「わかる」こととは違う理解の仕方なのである。それが「直観」である。池田氏の著書「メタフィジカル・パンチ」では、池田氏は「小林秀雄への手紙」で「直観」を「わかるということ」としている。
「直観」という言葉が誤解されやすいなら、私はそれを「わかるということ」と言い換えてみようと思います。
では、その「直観」としての「わかる」と、論理としての「わかる」との違いは何なのか。それは、人の「生(在る)と死(無)」の最も当たり前な事柄を「確信すること」が「直観」としての「わかる」であり、端的な論理で理解することが「わかる」であると、考える。この「生(在る)と死(無)」、小林秀雄氏はそれを「常識」としている。
常識とは、私たちが居る、というこのことである。そんなの常識じゃないか。君は言うだろう。そうだ、常識だ、まさにこれこそが常識なのだ、この常識、この自明さに、君は驚くことができるか。...
小林秀雄氏も、この端的な事実を、このように述べている。
<私が、常識という言葉は、定義を拒絶しているようだと言ったのは、この働きには、どうしても内から自得しなければ、解らぬものがある、それが言いたかったからなのです>
論理のうえで納得するということと、「内から自得してわかる」ということは、全然違う「わかる」なのだということが「わかった」そのとき、初めて人はそれをわかるのである。
哲学の必然とは、常識への確信だ。
常識が先に在るからこそ、哲学が成立し得るのだ。
「常識」を「確信すること」、あまりにも明瞭である私たちが「生きているということ」、言い換えると「存在していること」、「存在」、「在る」ことを「確信」するためには...
驚き
これは本当に大事なのである。この「直観」が成立するための「確信」も、「驚き」があってこそ「わかる」のである。私がこのようにブログでもって言葉を書き散らしている理由も、この「驚き」があってこそなのである。
人が何かを疑い、その疑いから考え始めるためには、その何かへの驚きがまず必然なのだ、哲学は驚きからのみ始まり得ると。
池田晶子「残酷人生論」p237
ほう、では何に驚いたというのだね、ATFLよ
答えよう。それは人間である上で「最も当たり前」な事実、「死(無)」を認識した時である。大学1年生の夏、学校が終わり帰路のバスの中で、夏目漱石の「虞美人草」を読んでいた際、「驚き」に出会った。
死を忘るるものは贅沢になる。...贅沢は高じて大胆となる。大胆は道義を蹂躙して大自在に跳梁する。
驚き、とともに一瞬絶句した。そしてこの文章を眼で追いつつ、脳裏にはこの三行の言葉から滲み出る骨格のない内容が浮上した。それを言葉にすると、人に対する侮蔑、軽蔑、嫌がらせ、セクシャル、パワーハラスメント。愚劣な人間は人の最も当たり前な事柄である「死」を忘れるが故に非行に走ると、私は「直観」でわかったのである。事実漱石は書いていた。
道義に重(おもき)を置かざる万人は、道義を犠牲にしてあらゆる喜劇を演じて得意である。巫山戯る。騒ぐ。欺く。嘲弄する。馬鹿にする。踏む。蹴る。ー悉く万人が喜劇より受くる快楽である。
疲れていたため鉛の様に重たい瞼が豁然と開き、刮目した。そして、この言葉は、「正しい」と、深く内から自得、確信したのである。漱石の身体を通して語られた「無私の精神」が、私自身の精神と絡まり合い、合致した。この言葉との出会いが、今、ブログを書いている絶対原点であり、さらなる真実を追求したいと意志する「自ずからの姿勢」の契機でもあり、その捉えた真実の言葉を相手に伝えたいために書くという、私の倫理観なのである。言霊の力かもしれない。「memennto mori(死を忘るるなかれ)」。では、そう自身の死を見つめた上で、問いが生まれた。将来先にあるものではない、今、ここに在る「死」とは何か。
..二千年前も、今日ただ今も、哲学は、<mortality:死すべきこと>の気づきにのみ発生する。 ...
現代は死が身近でないから死のことをうまく考えられない、ともよく聞くが、それは、自分がいかにものを考えずに生きているかを威張っているようなものである。...自分の死は、いま生きている君のそこにあるではないか。なぜそれを考えられないのか。
しかし、漱石の言葉を契機として、「死」を考えているのだが、これがまた「わからない」のである。この世から「存在しなくなること」である「死」、「無」であるが故に「 」。人は「 」を考えられるのか。「 」であるなら、それを恐れる道理はあるのか。
死は、考えてみると「無」なのである。
けれども、不可視の言葉で考えると「無」である死は、可視的なこの現象世界では明らかに存在している、死ぬ。身体は滅ぶが、思惟する精神に死は存在しないのである。
さらに、ここでまた考えてみほしい。人が「無」、言い換えると「ない」と言う時、それは「何か」が「ある」から「ない」と言えるのではないか。
Aがある、Aがないと考えることができる自分の思考のうごめきを観察せよ。「ない」なしに「ある」と言うことはできない。「ある」のない「ない」はない。「ある」あっての「ない」であり、「ない」あっての「ある」である、こういう言い方のうちに既に、「ある」と「ない」とは同じであって同じではなく、しかも両者があざなわれた縄のようになって運動始めているのが、観察されますね。これが、その名も高き、「弁証法的統一」である。そして、歴史の基礎である。
思惟した刹那に、「無」と化す「死」。その「無い」の裏側には何が潜むのか。「在る」である。「在る」、「存在すること」、「私たちが生きている」という経験である。では、「在る」とは何か。決して滅ぶことのない、不滅の存在、不死なる存在である「在る」とは何か。
..二千年前も、今日ただ今も、哲学は、<mortality:死すべきこと>の気づきにのみ発生する。翻って、<immortality:不死なるもの>とは、と問うところに成長する。
この「<mortality>」と「<immortality>」 、両者を鎖で繋いだ様な関係にあることを、「統一性(ユニテ)」という言葉で小林秀雄氏は名付けている。
「哲学は、統一性に到着するのではない、統一性から身を起こすのだ」
哲学的精神は常に、統一性を目指すものではなく、統一性から引き返してくるものです、烈しい反省の力(理性)によって。統一性とは、机上の諸概念の脳中での総合のことではない。それは、今、在るということ、この解り切った体験(存在)のことだ。
書く側と読む側に共有され、しかも、共有されているというそのことが自覚されていなければならない当のもの、それは、「統一性」である。統一性への端的な確信である。では、統一性とは何か。
聞き慣れた言葉で言い換えよう。それは、「常識」だ。我々が我々として、かく、在る、このことを統一性と言い、また常識と言うのだ。哲学は常識に到着するのではない、常識から身を起こすのだ。しかし、身を起こし得るそのためには、あらかじめ何が信じられていなければならないのか。言うまでもない、常識である。身を起こし、思惟し、再びこの常識へと帰還することである。
統一性、言い換えれば常識を観るためには、「直観」が大事なのである。時を抗して石のように動かない古典の言葉の紙背にある著者の精神を、自身の狭隘な自我を滅却して、自身の精神の運動と即して観る事が大事であると、考える。「内から自得」するには必須なはずである。
この力強い直観力を、読む側と書く側が確信し、共有することで、確信された言葉は、必ず常識から身を起こして思惟された「思想(意匠)」となり、何時の時代でも燦然と輝いているのだろう。
...思想とは、或るひとつの明らかな統一性を示す想念群の謂です。貴方(小林秀雄氏)はそれを「意匠」というふうにおっしゃった。
その時、古典を読む自身の精神と、著者の精神が合致する。直観を通して人は、過去の偉人や聖人の精神と交わる事が出来るのであると、考える。
生とは、それ自体が、動いてやまない精神の運動である。この事実を自身の生として承認さえするなら、固定されているように見える古典の言葉の背後に、動いてやまないその精神の運動を見るはずである。そしてその精神の運動に即して動いている自身の精神の運動をも感知するはずである。「思ッテ得ル」とはこのことだ。なるほどある言葉はその意を担っているように見えることもある。しかしその言葉を自身の生の運動のうちに置いて、いま一度眺めてみよ。また違った意を担っているようにも見えてくるではないか。生とはそういうものではないか。言葉を媒介にして、聖人の精神と自己の精神とが、混然と絡まり合いつつ動いてゆくのを味わう喜び、この時、普遍性は、知ろうとする以前に知られているではないか。学問とは、この喜びを知らしめること以外ではないのではないか。
池田晶子「新・考えるヒント」p128
著者の精神が、自己の精神であったと判然と自覚、認識する時の喜びは、本当に味わい深いものである。そして常識から身を起こした文章をさらに認識したい、読みたいと思う意志、この倫理観も大事にしていきたい。
知ることへの欲望とは、まぎれもなく真理への意志である。
おわりに
広大無辺な宇宙の不可解な存在、それを確かに賢人達も観ていた。この確信を手放さずに古典を読むこと、経験した自身の確信を自覚し読むこと、そう自覚することで、存在の絶句の息遣いを、逆説や晦渋な言語表現で騙ろうとする著者の精神が、紛れもなく己の精神である事に気が付くのである。古典を読むとは、自己を読むことに他ならないからである。この力強い直観力を磨く為にも、古典にある真の自己と出会い、思索の日々を送りたいと、考える。
参考文献
『メタフィジカル・パンチ 形而上より愛をこめて』池田晶子、文春文庫
フランクル 「夜と霧」 生きる意味
Viktor Emil Frankl 1905-1997 ヴィクトール・E・フランクル
オーストリアのウィーンに生まれ、第二次世界大戦中、ナチスにより強制収容所に送られ、その体験を「夜と霧」に記した。
劣悪な環境の中で、生存競争のため暴力や窃盗も平気になるほど精神レベルが下がる人もいる一方、勇猛果敢に己のプライドを保ち生き続けた中の一人だ。
フランクルはどのような精神を持ち収容所を耐え抜いたのか。
そして絶望的な状況の中でも、人間が「生きる意味」を教えてくれる。
まずは与えられた環境でどのような精神を持ったのか、このことについて見てみる。
人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない...
...人間はひとりひとり、このような状況であってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。
これは収容所に限った話でなく、現代にも当てはまるのではないか。
周りと調子を合わせて生きていくのか、それとも自分自身で判断し、生きていくのか。
集団的な考えが本当に正しいのかどうか、集団でかかるいじめに加わるのか、それとも自分でいじめは悪いことだと判断し、止めに入るか、いじめられる側に入るか、すべては自分自身で判断しなければならない。
そして、劣悪な環境の中で、
生きることに意味があるのか、否か、これも自分自身で判断しなければならない、と書いている。
そこに唯一残された、生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようががんじがらめに制限されるなかでどのような覚悟をするかという、まさにその一点にかかっていた。被収容者は、行動的な生からも安逸な生からもとっくに締め出されていた。しかし、行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。
およそ生きることそのものに意味があるとすれば、
苦しむことにも意味があるはずだ。
苦しむこともまた生きることの一部なら、
運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。
苦悩と、そして死があってこそ、
人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。
自分自身が存在しているからこそ、苦痛を経験することが出来る。
苦しみを乗り越えて勉強や物事に取り組んだ結果、自分自身の糧になる。
これらは自分自身が存在しているから出来ることであって、それはとても「有り難い」ことであると、他の本にも書いてあった。
感謝という感情があるね。君は、人に何かをしてもらった時、感謝して「ありがとう」と言うね。あの「ありがとう」とは、もともとは、この奇跡の感情を言うものなんだ。在る理由がないものがなぜか在る。この驚きに発するものなんだ。だから、存在への驚きを知る人や敬虔な信仰をもつ人は、苦しみにすら感謝して、「有り難う」と言うだろう。苦しみや、むろんのこと喜びという経験を、この身に経験することができるのは、宇宙が、自分が、なぜか存在するからこそだ。やっぱりこれはものすごく在り難いことだと思わないか。
(池田晶子「14歳からの哲学」)
コペル君!「ありがたい」という言葉によく気をつけて見たまえ。この言葉は、「感謝すべきことだ」とか、「御礼をいうだけの値打がある」とかいう意味で使われているね。しかし、この言葉のもとの意味は、「そうあることがむずかしい」という意味だ。「めったにあることじゃあない」という意味だ。自分の受けている仕合せが、めったにあることじゃあないと思えばこそ、われわれは、それに感謝する気持になる。それで、「ありがたい」という言葉が、「感謝すべきことだ」という意味になり、「ありがとう」といえば、御礼の心持をあらわすことになったんだ。
(吉野源三郎「君たちはどう生きるか」)
収容所の経験が「ありがたい」ことであり、感謝すべきかどうかは著者にしか分からないが、収容所の凄惨な体験を書物にし、「真実」を読者に伝えてくれるということだけでも、とてもありがたいことだと思う。
この様な考えを持たず、収容所の中で「生きていることに期待がもてない」という人に対し、フランクルはあらためて「生きる意味」について書いていた。
生きるとはつまり、
生きることの問いに正しく答える義務、
生きることが各人に課す課題を果たす義務、
時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。
したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。ここにいう生きることはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。
この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、
他に類を見ない人それぞれの運命を もたらすのだ。
…
具体的な運命が人間を苦しめるなら、
人はこの苦しみと責務と、
たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。
人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙たった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。
だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。
だれもその人の身代りになって苦しみをとことん苦しむことはできない。
この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、
ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。
…
わたしたちにとって生きる意味とは、
死もまた含む全体として生きることの意味であって、
「生きること」の意味だけに限定されない、苦しむことと死ぬことの意味にも裏づけされた、総体的な生きることの意味だった。この意味を求めて、わたしたちはもがいていた。
ただ生きるだけなら動物と同じ、
安逸に暮らしたまま生きることに何の価値があるのか。
ひたすら生に執着し、生きることだけを追求して延命治療を施しているのが現代科学だが、本当にただ生きていることだけに価値があるのか。
非行に走ったり、マナーを守らない若者や、売春する高校生、金のことしか考えない政治家、ボケて何を言っているのか分からない老人など、そんな有様で生きていることに価値があるとは到底思えない。
何のために生きるのかと考えず、
ただ生きたいと思う理由が「死」への恐怖ではないのか。
「死」は未知のものであり、分からないから恐いものだ、忘れてしまいたい、と感じてしまうかもしれないが、前回のブログにも書いた通り、ソクラテスが述べた「無知の知」、
「死」は分からない、「分からないということ」が分かるものだから、
死はきちんと考えれば恐いものではない。
自身の「死」をしっかり見つめて考えた上で、与えられた課題をこなしていく。
中には現実逃避したくなるものもあるかもしれないが、フランクルが書いている通り
「一度だけ課された責務」として物事に取り組むことは、苦しいかもしれないが、
自分自身が存在しなければそれは出来ることではないので、そう覚悟を決めた上で生きることが、価値ある生き方ではないかと思う。
だが、現実問題ブラックな社会でもあるため、そこは自分自身の判断も必要になってくることも視野に入れたい。
そのためにも、「学び」と考え方を鍛えるために「本を読む」ことはこれからも大事にしたいと思う。
- 作者: ヴィクトール・E・フランクル,池田香代子
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2002/11/06
- メディア: 単行本
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池田晶子「さよならソクラテス」無知の知
最近は哲学にハマり込み、独りで考える時間が多くなった。
哲学と聞くと世間では堅苦しいイメージがあるかもしれないが、池田晶子さんの書く哲学は、分かり易い文章で深く考えてしまうものばかりだ。
その中でも「ソクラテス」シリーズが面白いので紹介する。
まずはシリーズ一部作「帰ってきたソクラテス」から。
人は生きていたいと思うのは、死ぬのが怖いからなんだ。死ぬことは生きることよりよくないことだと知っていると思っているのだ。しかし、死ぬことは生きることよりよくないことではないかもしれないのだ。いや、ひょっとしたら、死ぬことは生きることよりよいことかもしれないのだ。だとしたら、それでも人は死ぬのを望まないものだろうか。
生きていることも死んでいることも、そのことがどういうことなのかさっぱりわからんというのに、わからんものをなんで選べるのだ、権利にすることができるのだ。生きることを権利にするのは、生きることが死ぬことよりよいと思ったからで、死ぬことを権利にするのは、死ぬことが生きることよりよいと思ったからだろう。本当はどっちがよいことなのだ。人はどっちを権利にするべきなのだ。
生きること、生きていたいことを権利とする基本的人権と、死ぬこと、死にたいことを権利とする尊厳死があるが、生きることと死ぬこと、どちらに価値があるのかわからない。ただ「わからないということ」がわかる。ここに着目してほしい。
続いて二部作「ソクラテスよ、哲学は悪妻に訊け」
クサンチッペ
あたしの価値がわかんないような男は、しょせんそれだけの男なのさ。
評価するのは最後の最後まであたしの方だ。間違っても逆はないよ...
死ぬときゃいつだって死んでやるよ。死ぬのが恐くて生きてなんかられるかってんだ。あんたらとは最初っから覚悟が違うんだよ。
死を恐れることなく果敢にフェミニストに対し啖呵を切る彼女の言葉はとても魅力的だ。この本でもソクラテスは普段人が恐いと感じる「死」について述べている。
皆、自分が死ぬということを知らなすぎるね。...しかし、知らんことを知ってるのと、知らんことも知らんってのは、やっぱり全然違うことでね。何が違うって、生き方の構えが歴然と違う。
僕は、死とは生がそれに対して何らかの態度を取るべき何かであるのかどうかを知らないからだ。それを知らないということを、明らかに知っているからだ。
本当は、わからないから恐がないはずなんだけどねえ。
死をわかるわかり方はないとわかっとらんから、
わからん死をわかろうとしてわからなくなっているんだね。
必ず我々に訪れる「死」、それが「わからない」から恐いものと感じてしまいがちだが、二人はそれを恐れることはない。
その具体的な理由についは三部作「さよならソクラテス」にある「ソクラテスの弁明」にはっきりと書かれていた。
僕は、いかなる場合であれ、死を恐れたことがない。
なぜなら、いいかね、
死を恐れるということこそ、
人間の無知のうちの最大の無知、
すなわち
自ら知らないものを
知っていると思い為すことに他ならないからだ。
死はひょっとしたら、最大に善いものかもしれないのに、
人はそれを最大の害悪であることを知っているかのように恐れるのだ。
けれども僕は死を知らない。
知らないということを、はっきりと知っている。
ゆえに僕は、死を恐れることなく、正を知ることを欲するのだ。
武井壮さんが「ソクラテスの弁明」で無知の知を通して感動を受けたことをテレビを見て知ったが、その理由がより深く理解出来る言葉だった。
このように池田さんの書くソクラテスシリーズでは無知の知以外にも、人間としての本来の生き方についてや、社会に対する考え方をばっさり斬るような言葉が数多くあり、いつの時代も変わらない普遍的な真理を教えてくれる。
死を恐れない精神だけが、動物的本能から完全に自由である。
人はウソに弱いのだ。ウソやウソのことを言う人を好んで、本当のことや、 本当のことを言う人を怖れるのだ。なぜ怖れるかって、自分のウソを知っているからだ。自分がウソを言い、ウソを生きていることを知っているから、本当のことを知るのを怖れるのだ。
僕らが誰か人を信頼するのは、その人の考えがその人の生き方を裏切らず、その人の生き方がその人の考えを示している、そういう時だけだ。
他人を否定することでしか自分を語れんようなやつは、どうせ語れるような自分なんかありゃせんのだ。そんなのにかかずらう(関わりを持つ)のは大事な時間を無駄にする。ほっといて、君は君の信条を貫きたまえ。
人が生きる意味と価値とは、精神性すなわち真善美の追求であることを疑ったことがない。
まだまだあるのだが、これらの言葉はぜひ本を買って自分で考えて見て欲しい。
正義だ。正義のためだ。正しく生き、正しい人となるために、
僕らには哲学が必要なのだ。
クサンチッペ
哲学なんて、あたしはどーでもいいんだ。
だけどさ、こういうのが哲学だっていうんなら、こんなの、
ぜんぜん当たり前のことでないの。
参考文献
[1] "帰ってきたソクラテス", 池田晶子, 新潮文庫, 2002.
[2] "ソクラテスよ、哲学は悪妻に訊け",池田晶子, 新潮文庫, 2002.
[3] "さよならソクラテス", 池田晶子, 新潮文庫, 2004.
夏目漱石「虞美人草」 死を忘れるな
今回は私が漱石作品の中で非常に影響を受けた「虞美人草」について感じたことを書いていきたい。これを読んで私自身の人生観ががらりと変わった小説でもある。
最も印象を受けたのは、小説の最後の部分で、哲学者の甲野さんが我執に充ちた妹である藤尾の死について綴った日記だ。中でも、私が目にとまったのはこの一節だ。
死を忘るるものは贅沢になる。...贅沢は高じて大胆となる。大胆は道義を蹂躙して大自在に跳梁する。
自らの「死」を忘れて、贅沢をするものが道義(人倫)を踏みにじる。
なぜ「死」を忘れてはならないのか。漱石は「死」を偉大な存在として書いている。
悲劇は喜劇より偉大である。
これを説明して
死は万障を封ずるが故に偉大だと云うものがある。
取り返しが 付かぬ運命の底に陥(おちい)て、出て来ぬから偉大だと云うのは、流るる水が逝(ゆ)いて帰らぬ故に偉大だと云うと一般である。...
忽然(こつぜん:一瞬)として生を変じて死となすが故に偉大なのである。忘れたる死を不用意の際に点出するから偉大なのである。
巫山戯(ふざけ)たるものが急に襟を正すから偉大なのである。
襟を正して道義の必要を今更の如く感ずるから偉大なのである。
どんなに人生を謳歌しても、決して逃れられない「死」は、我々に必ず訪れる。
その「死」はこぼれてしまった水のように、再び「生」に戻ることはない。
取り返しの付かない「死」はあらゆる悪を封じ込める。その「死」の偉大さに気が付けば、ふざけるものも動きを止めて、「人倫」を持たねばならないと感じる。この「ふざけるもの」は、この後に述べるが、今を生きる我々自身である。
人生の第一義は道義にありとの命題を脳裏に樹立するが故に偉大なのである。
しかし、今もなお発展する社会はその「死」については考えず、どの職業がいいか、どの服がいいか、どの男がいいか、女がいいかなど、いかに人生を生きるか、「生」についてしか考えないようになる。ここで漱石は、このように、どれがいいか選り好みをする「贅沢」を「喜劇」、「生死の問題」を「悲劇」とした。
問題は無数にある。粟(あわ)か米か、これは喜劇である。
工か商か、これも喜劇である。あの女かこの女か、これも喜劇である。
綴織(つづれおり)か繻(しゅ)ちんか、これも喜劇である。
英語か独乙(ドイツ)語か、これも喜劇である。
凡てが喜劇である。
最後に一つ問題が残る。ー生か死か、これが悲劇である。
如何にして生を解釈せんかの問題に煩悶して、死の一字を念頭に置かなくなる。この生とあの生との取捨に忙しきが故に生と死の最大問題(悲劇)を閉脚する。 死を忘るるものは贅沢になる。...贅沢は高じて大胆となる。大胆は道義を蹂躙して大自在に跳梁する。
なぜ「喜劇」である贅沢が「道義」を踏みにじるのか。ここからは漱石の社会に対する強烈な批判、怒りにも等しい内容が書かれている。
万人は日に日に生に向って進むが故に、日に日に死に背いて遠ざかるが故に、大自在に跳梁しても生中を脱する虞(おそれ)なしと自信するが故に、-道義は不必要となる。
発展を進める社会は次第に贅沢になっていき、多くの人は次第に「死」について考えなくなるために、道徳を踏みにじっても、生きていけるから大丈夫であると高を括っていく。この「喜劇」=「贅沢」が、ふざけるものを生み出す。
道義に重(おもき)を置かざる万人は、道義を犠牲にしてあらゆる喜劇を演じて得意である。巫山戯(ふざけ)る。騒ぐ。欺く。嘲弄する。馬鹿にする。踏む。蹴る。ー悉く万人が喜劇より受くる快楽である。この快楽は生に向って進むに従って分化発展するが故に、-この快楽は道義を犠牲にして始めて享受し得るが故にー喜劇の進歩は底止する所を知らずして、道義の観念は日を追うて下る。
いじめや虐待、誹謗中傷、社会人にとっては過労をさせたり、マウンティング行為をしたりするような人間は、自らの「死」(悲劇)を忘れて、喜劇(贅沢)を演じるから悪を成して、道義を踏みにじるのではないか。社会が発展するにつれて、喜劇(贅沢)が著しくなり、道義は忘れられていく。
道義の観念が極度に衰えて、生を欲する万人の社会を満足に維持しがたき時、悲劇は突然として起る。ここに於(おい)て万人の眼は悉く自己の出立点に向う。始めて生の隣に死が住む事を知る。
いじめや虐待による「死」、過労死、自殺、喜劇(贅沢)により道義が消えかかる時、そこに悲劇(死)が表れる。その時、我々は悲劇(死)が将来先に在るのではなく、生きている今にあることを知る。
妄(みだ)りに躍り狂うとき、人をして生の堺を踏み外して、死の圏内に入らしむ事を知る。人もわれも尤も忌み嫌える死は、遂に忘る可(べ)からざる永劫の陥穽(かんせい:落とし穴)なる事を知る。陥穽の周囲に朽ちかかる道義の縄は妄りに飛び超ゆるべからざるを知る。縄は新たに張らねばならぬを知る。
喜劇(贅沢)に翻弄される人間は、忘れていた悲劇(死)が落とし穴のように、注意しなければならないことであると理解する。そして道徳は踏みにじってはならないことを理解する。道徳は必要でなければならないと理解する。
第二義以下の活動の無意味なる事を知る。
而(しか)して始めて悲劇(死)の偉大なるを悟る。...
道義の実践
上記に書いた「死」の偉大さについての部分を、私は今から一年以上前に読んだのだが、未だに忘れることはない。忘れてはならないものである。
道義の運行は悲劇(死)に際会(出くわす)して始めて渋滞せざるが故に偉大なのである。...悲劇(死)は個人をしてこの実践(道義)を敢(あえ)てせしむるが為に偉大である。...人々力をここに致すとき、一般の幸福を促して、社会を真正の文明に導くが故に、悲劇(死)は偉大である。
人々が自分自身の「死」について、「死」の偉大さについて考え理解すれば、必然的に道義を持って、良い社会を築いていけると漱石は書いている。
あらためて書くが、
死を忘るるものは贅沢になる。...贅沢は高じて大胆となる。大胆は道義を蹂躙して大自在に跳梁する。
この一節は「死」の偉大さ、忘れてはならないことをまとめた、大切な一節だと思う。
おわりに
18世紀末に産業革命が起こり、大量消費、大量生産を行う豊かな「近代社会」が出来た。そしてIT革命が起こり、今の「現代社会」はより個人の生活が豊かになり、より「贅沢」が出来る環境が出来た。しかしこの一人一人が選り好みできる「贅沢」な環境が、自分の欲望のままに動き、我執にとらわれて、人倫を希薄にさせ、いじめ、虐待、過労死を招いているのではないか。改めて一人一人が「死」について考え、次世代を生きる人たちのためにも、漱石が訴える「道義」の必要性を理解しなければならないと思う。
参考文献
村上春樹「沈黙」から思う 深みについて
初のブログ投稿。基本的に私の好きな文学作品について書いていきたい。
要約をして自分の考え方を述べるためネタバレ注意!
村上春樹「沈黙」の要約
新潟までの飛行機を待つまでの時間、僕は今でもボクシングジムに通っている大沢さんに、「これまでに喧嘩をして誰かを殴ったことがあるか」と訪ねる。共に仕事をする仲で、誠実で温厚な大沢さんは、僕の質問を聞くと鋭い視線を向けるが、しばらく沈黙した後、一度だけ人を殴ったことがあると話す。そしておもむろに話を始める。
大沢さんは中学二年生の時、同級生の青木という男を殴った。青木は勉強、スポーツともに成績優秀で、クラスのみんなから人目置かれる存在だった。対照的に大沢さんはクラスでは目立たない人で、叔父さんに勧められたボクシングジムに通い、クラスの生徒よりか、ボクシングジムで出会う人々との交流が盛んだった。ある日、大沢さんは猛勉強して期末試験の英語のテストで一番を取る。今まで一番を取り続けた青木はショックを受け、大沢さんがカンニングをした、という噂を広め、大沢さんは頭にくる。そして昼休みに青木を人気のないところへ連れ出し、左の頬にストレートを打ち込む。その後青木は大沢さんのことを無視する。クラスが変わり、青木と大沢さんはできるだけ顔を合わせないようにしていたが、陰で青木は復讐を企む。高校三年になり、また大沢さんは青木と同じクラスになる。(学校は中高一貫校)
高校最後の夏休みに、クラスにいる一人「松本」という生徒が地下鉄に飛び込み自殺をする。生徒の松本は、学校で誰かに殴られていたらしく、それを青木はかつて自分を殴った大沢さんが犯人ではないか、彼はボクシングジムに通っている、と教師に話し、警察沙汰になるほど、大沢さんは疑いをかけられる。クラスの生徒や教師からも冷たい目で見られ、孤立していた大沢さんは、高校残りの半年を黙って耐えていた。
大沢さんは孤独に耐えていた中、通学中に電車で青木と向かいあう状態で顔を合わせる。青木は冷笑するような目で大沢さんを見つめていたが、大沢さんには彼を憎む感情は出ず、悲しみや憐れみに近い気持ちを抱く。それから大沢さんは立ち直り、残りの学校生活を耐えながら過ごし、九州の大学へ入る。ここまでが大沢さんの話だ。
本当の喜びや勝ち誇り
大沢さんが電車の中で青木と向かい合った時の感情、ここが精神的な成長、情操の育成における文学作品の重要性であると考える。本文にはこう書かれている。
もちろん僕は青木に対して腹を立てていました。時には殺したいくらい憎んでいました。でもその時、電車の中で僕が感じたのはもっと静かな感情でした。それは怒りとか憎しみよりかは、むしろ悲しみとか憐れみに近いものでした。本当にこの程度のことで人が得意になれたり、勝ち誇ったりできるのか、これくらいのことでこの男は本当に満足し、喜んでいるのだろうか、と僕は思いました。そう思うと、僕はむしろ深い悲しみを感じたんです。この男には本物の喜びや本物の誇りというようなものは永遠に理解できないだろうと僕は思いました。ある種の人間の心には深みというものが決定的に欠けているのです。僕は自分に深みがあると言っているわけじゃありません。僕が言いたいのは、その深みというものの存在を理解する能力があるかないかということです。でも彼らにはそんなものはありません。それは空しい平板な人生です。どれだけ他人の目を引こうと、表面で勝ち誇ろうと、そこには重要なものは何もありません。何の意味もないのです。
相手を馬鹿にしたり、自分が相手より優位であることを感じて優越感に浸るような者は、その喜びや勝ち誇りの蓋を開けてみても空っぽで意味がない。形骸化している。
大沢さんのようにボクシングジムに通い練習をする、それ以外にも勉強をコツコツと続けて、その結果、良い成績が取れたり、良い結果が出た時の喜びや勝ち誇りは、蓋を開けてみると、そこには努力を続けた、やり込んできたという深い意味があると思う。
大沢さんは話を始める前に、僕にボクシングが好きな理由を語る。
僕がボクシングを気に入った理由のひとつは、そこに深みがあるからです。(中略)人は勝つこともあるし、負けることもあります。でもその深みを理解できていれば、人はたとえ負けたとしても、傷つきはしません。人はあらゆるものに勝つわけにはいかないんです。人はいつか必ず負けます。大事なのはその深みを理解することなのです。
近頃、マウンティングという言葉を耳にするようになった。自分は相手より上だ!と考えるような人が増えてきている。SNS上ではこれ見よがしに自分が優れていると自慢するような投稿が多く、それに嫉妬したり、俺のほうがすごいぞ!と競り合ったりする人もいるかもしれない。そのような人は大沢さんの言う通り、深みを理解していない、意味のない人であると考える。そうではなく、自分がやりたいことに打ち込むこと、努力することこそが、深みのある生き方ではないかと思う。努力して失敗しても、努力したぶんだけの経験が蓄積されるので、意味がないわけではない。
人はふつう悪意よりも虚栄心によっていっそうひどい悪口屋になる
自分を実質以上によく見せようと虚栄を張る人間こそ、意味のない生き方を送っている思う。
一番怖いのは人間
大沢さんは一連の話した後、僕に向かってまた話をはじめる。
でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の言いぶんを無批判に受け入れて、うのみにする連中です。自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。彼らは自分が何かまちがったことをしているんじゃないかなんて、これっぽっちも考えたりはしないんです。彼らは自分が誰かを無意味に、決定的に傷つけているかもしれないなんていうことに思い当たりもしないような連中です。自分たちのとった行動がどんな結果をもたらそうと、何ひとつ責任はとりません。風向きのまま動くだけです。僕が本当におそれるのはそういう連中です。
力のある人間が非難した人間に対し、考えもせずにレッテルを貼って見縊る人々。思い込みや決めつけで判断するような連中が沢山いると、それは間違っていることであっても、数の力、外圧により潰されてしまうかもしれない。それでもその外圧に耐えて、深みのある生き方をする人こそ「強い人間」であると思う。
「僕が求めているのは、僕が求めている強さというのは、勝ったり負けたりする強さじゃないんです。外からの力をはねつけるための壁がほしいわけでもない。僕がほしいのは外からやってくる力を受けて、それに耐えるための強さです。不公平さや悲しみや誤解や無理解ーそういうものごとに静かに耐えていくための強さです」
終わりに
初めてのブログ開設だったが、自分の好きな文学作品についてアウトプットをすると、上手く言葉にできなかったことが形になり嬉しい。時間があればこういった考え方を紹介していきたいと思う。